悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第6回
公開日:2019/6/18
グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

「同じアルバイト先の子で、すごくいい子だったから、お父さんにも会ってもらおうと思って。家に連れてきたでしょ。わざわざたこ焼きプレート買ってさ。お父さん、そのときもビールばっかり飲みながら、お母さんと私が作ったたこ焼き食べてて──私が他の料理とか用意してる間に、智哉くんと話してたよね。その時のこと、覚えてる? その時に何を言ったか、ちゃんと覚えてる?」
がたり、と立ち上がりかけた武藤氏の肩を押さえ、荒神は元の席にその巨体を押し込んでしまった。口元には切れるような笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。立つな。どこへも行くな。テーブルの上の私の料理を食べてしまうまでは、逃がさないぞとでも言うかのように。
「智哉くんは三重の子でね。さっき言ってた飛魚から来た子だったんだけど、ほんとに地元のことが好きだったんだよ。大学を卒業したら帰りたいな、綾も一緒に帰ろうよって──そんなことまで言ってくれたんだけど──」
「マスター、ちょっとお手洗いに行かせてくれ……」
武藤氏は震える声を出す。顔が真っ青だ。
「急に腹が痛くなってきたみたいだ。牡蠣にあたったのかもしれない──」
「あたったとしても、すぐ症状など出やしませんよ」
荒神の言葉には容赦がない。武藤氏に助けを求めるような視線を送られて、刀馬は思わず駆け寄ろうとした。しかし──武藤氏の肩を押さえる荒神の目が、余計なことをするなと訴えている。さっきまでは羽のように軽い笑みを浮かべていた武藤夫人までもが、刀馬に咎めるような視線を送っている。言葉を切っていた綾はふう、と長いため息を吐いて、正面の父親にまっすぐな視線を向けた。テーブルクロスの端を握る手が、小刻みに震え始めていた。
「お父さん、この話をするといつも逃げようとするんだから。わかってたよ。こうでもしないと、ちゃんと聞いてくれないって」
「──武藤さま、お皿にまだ牡蠣が残ってございます。さあ、早く」
武藤氏はもう抵抗しなかった。顔を青くしたまま、娘の視線から逃れるように皿だけを見つめて、残っていた牡蠣をひとつ、またひとつと、苦しそうに喉の奥へと押し込んでいく。口からは五つ目と六つ目の真珠を吐き出していた。その肩をぽんと叩いた荒神が、もったいぶった口調で話し始める。
「よろしい。それでは、少々お待ちくださいませ。まだとっておきのものが残ってございますからね。厨房よりただいま運んでまいります。しばしのお待ちを……」
「ま、待ってくれ、もう──」
「智哉くんは、お父さんに向かって、何も悪いことなんて言わなかった!」
にわかに響いた娘の声に、武藤氏ははっと身をすくめた。綾は全身を小刻みに震わせている。隣に座る母親は何も口を出さず、テーブルの真珠を見つめて座っているだけ。武藤氏の肩から手を放した荒神は、音もなくテーブルのそばを離れ、厨房へと静かに戻っていった。武藤氏も席を立とうとはしない。荒神の手で暗示にかけられ、椅子に縛り付けられてしまったかのように、全身を硬直させている。
「智哉くんはいい子だったでしょ。何を言われても言い返さなくて、言われるがままでさ。お父さん、その子になんて言ったか、覚えてる? そんなに上等な家庭では育っていないね、きみは。箸の持ち方がおかしいし、いかにも田舎の子で、まともな店にも行ったことがないって感じかな。それに、その歯。男の子なのに犬歯を生やして、親御さんは歯の矯正をしてくれなかったのかい? うちは綾が小学校に入るころには矯正歯科に通わせていたけどな。とにかくその歯は直したほうがいいよ。海外じゃ特に馬鹿にされるんだから──」
「べ、別にそんな、深い意味で言ったわけじゃない!」
武藤氏が掌でテーブルを叩く。武藤夫人は眉のひとつも動かさず、転がったキャンドルをそっと手で止めてから、また膝の上で拳を握った。綾は冷静だ。顔を真っ赤にして身を乗り出す父に、ただまっすぐな視線を送っている。
「別にそんな、その子の家のことを笑おうだとか、馬鹿にしようだとか、そんな気持ちがあったわけじゃない。ちょっとした冗談だ、だろ? 綾が初めて連れてきた彼氏なんだ、からかってみたくもなるじゃないか。否定したわけじゃないよ。相手も笑ってたじゃないか。ただの冗談で……」
「相手がそれで死んだとしても?」
「はっ!?」
「お父さんのその冗談で、その子がすごく傷ついて、自分のことを全部否定されたような気持ちになって──それで、死んでしまっても?」
「死ぬって? おい、綾──」
「うん、そうやって言うんだろうね、お父さんは。ほんの冗談のつもりだった。自分はそんなひどいことは言っていない。相手がそれで悲しくて、絶望して、自殺しちゃったとしても、それは相手が弱かったからだ。私は何も悪くない──」
「そんな、待ってくれ、いや……」
耳を裂くような破裂音が響いて、身を乗り出す武藤氏と、父娘のやりとりを呆然と聞いていた刀馬だけが、厨房から出てきた荒神に勢いよく視線を投げた。クラッカーを鳴らした荒神は、まるでクリスマスを迎えた子供のような顔をして、ぱちぱちと手を鳴らしている。カウンターに置いていた皿を頭の上まで掲げ、ハッピーバースデイと優雅に呟いてから、静まり返るテーブルへと戻ってきた。巨大な皿がどん、と武藤氏の目の前に置かれる。皿には牡蠣がひとつだけ。それもひときわ大きく、立派で、見事なまでに肥え太った内臓のような牡蠣だ。
「綾、待て。どういうことなのか、ちゃんと説明しなさい」
「まあまあ、少々お待ちを。私から話したほうがいいこともあるでしょうからね」
「綾──綾! 返事をしなさい、綾!」
「あの美しい海で真珠が育まれるのは、決して偶然などではない!」
武藤氏の言葉は、響き渡った荒神の声にかき消された。ぶるぶると震え、怯えたように自分を見上げる男の頰をそっとつついて、荒神はその視線を皿の上の牡蠣へと誘導した。まだ静かに息づいているもの──海から引き揚げられたばかりの肉身。外套膜の黒い襞がかすかにうごめいたように見えて、刀馬は身震いした。
武藤氏は?りつけられた子供のように、椅子に縛り付けられ、目の前に供された巨大な牡蠣をひたと見据えていた。こめかみには大粒の汗をかいている。指先は震え、もうまともに言葉を紡ぐこともできていない。
「あの……もう……私は……」
「そう。偶然などではないのですよ。綾さまのおっしゃる通り、飛魚はほんとうに美しいところです。海は穏やかで青く、牡蠣の育つこの湾のことを──土地の方々は格別尊いものとして扱っていらっしゃるそうです。飛魚は人々が帰りくる場所だ。そこで育った牡蠣を、御影の牡蠣と名付けよう……」
荒神の言葉は武藤氏を麻痺させ、その巨体を白いテーブルに縛り付け、視界をあの生々しい牡蠣で埋め尽くしているように見えた。武藤氏は皿の上の牡蠣しか見ていない。顔色はますます悪く、額や首にまで汗をかき始めている。
「飛魚湾にはさまざまなものが流れ着くと言われておりますからね。遠い沖で育った魚も。どこか異国の地で沈んでしまった船の破片も。そして──」
荒神はよどみのない口調で喋り続けている。その手は武藤氏の背にそっと添えられていた。慈しむように。それでいて、獲物を逃がすまいとする鷲の爪のように、強く、力を込めて。
「海に消え、どこかへ行ってしまったかけがえのない人の一部も、また……」
武藤氏は短く、高い悲鳴を上げた。首を振り、激しく咳き込み、目をかたく閉じて一息に言葉を返す。
「あんたはいったい、何が言いたいんだ!」
「異物の侵入による防御反応で真珠ができる──というのは、厳密には誤りでございますけれどね。しかし体内に入ってくる異物が多ければ、それだけその異物が外套膜の一部を巻き込み、そこで真珠を作り上げてしまうことが多くなるとも言えるわけです。ミカゲガキはきっと弱い牡蠣なのでしょう。入ってきた異物を吐き出すことができずに、その異物を核とした真珠を作ってしまう。ああ、もちろん異物とはいっても、衛生管理はきちんとなされていますよ。汚いものとはみなされないのです。真珠はね。その核が何であれ──」
「母さん」
武藤夫人は答えない。武藤氏はかっと目を見開き、真っ白な顔をしている娘に向かって、かすれる声を上げた。
「綾!」
「食べなさい」
答えたのは荒神だ。両手を武藤氏の肩に置いたまま、荒神は相手の顔をそっと覗き込み、優しい口調で語りかける。
「食べなさい──残すことは許されていません。これはあなたのために投げ出された命です。あなたのために海から引きずり出された命です──」
「食べて、お父さん」
綾が口を開く。その目は何も訴えていなかった。ただまっすぐ、むなしく開いて、牡蠣を目の前にした父親を見つめているだけだ。
「食べて。お父さんのために取り寄せたの。食べて」
武藤氏は荒神を見、何も言わない妻を見、自分を見据える娘の顔を見て、くしゃっと表情を歪めた──すぐに弛緩したような顔に戻って、皿の牡蠣を取る。添えられたレモンが音を立てて落ちる。震える唇が下殻をくわえた。つるり、と滑る身が、その分厚い喉へと吸いこまれていく。そして──。
「あの子はね、故郷の海に身を投げたの。大好きだった飛魚の海に」
かはっ、と大きく咳き込んだあと、武藤氏は椅子を蹴って立ち上がり、小刻みに全身を震わせ始めた。顔が真っ青になっている。手は首をがっちりと摑み、まるで自らの呼吸を止めようとするかのように、その肉に太い指をしっかりと食い込ませている。湿った咳、はみ出す舌、見開かれた目──刀馬はたまらず飛び出そうとするが、素早く体を滑り込ませてきた荒神にその動きを阻まれ、大きくよろめいてしまう。やめろ、もう、止めなければ。中毒症状か? 違う、これは、何かが喉に──!
「ばらばらになっても、真珠になって帰ってきたんだね。私にはわかるよ──」
武藤氏が大きく咳き込むと同時に、その喉の奥から飛び出したものが、テーブルに積み上げてあった真珠の山をばしゃん、と崩した。ひときわ大きく、いびつで、白い輝きを放っているもの──しかし形はわかる。それが何であったかの痕跡は、はっきりと残っている。深い根に緩やかなカーブ、尖った先端、牡蠣の真っ白な真珠層で包まれてもなお、確かな形を残している、人間の犬歯のかけら──。
武藤氏は叫んだ。咳き込み、叫び、また長い悲鳴を上げて、ちぢれ気味の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。必死に足を蹴り出しているが、膨らんだ腹がテーブルと椅子の間に挟まって、うまく動くことができていない。見かねた刀馬が椅子を引くと、その巨体は転がるようにしてテーブルを離れた。すぐそばの壁にぶつかり、バウンドしてはまた同じ壁に激しく衝突する。丸っこい首が何かを探すようにぶんぶんと振られているのを見て、荒神が穏やかに、これ以上にないほど人懐っこい声を上げた。
「お手洗いなら、あちらに。隅のドアでございます」
武藤氏はまっしぐらにその手洗い場へと向かって、ホール全体が揺れるほどの音を立てて扉を閉めた。激しい咳と何かを吐き出すような声が聞こえてくるが、目と手と腕と口をぽかんと開きっぱなしにした刀馬を除き、荒神も、武藤夫人も、そして娘である綾も、まったくもって心配するそぶりを見せない。ドアと他の三人をばっ、ばっと見比べている刀馬の目の前で、綾は何も言わずに立ち上がり、荷物を置いたままでテーブルを離れる。武藤夫人がすぐにそのあとを追った。そして、荒神も。
連れだって階段へと向かう三人の背中を見ながら、刀馬はもう一度お手洗いのドアに視線を投げた。苦しげなうめき声が聞こえてくる。ちらりとも振り向かずに地下のホールを出て行った三人の足音が、規則正しく階段を上っていく──。
「あの……」
取り残されたのは刀馬だけ。刀馬はまたお手洗いの音に耳を澄ませ、武藤氏の呼吸が少し落ち着いていることを確認してから、階段を二度見する。足を踏み出して、その急な段を一気に駆け上がった。まぶしくなる視界──一階のホールは光にあふれている。あはは、あははと明るく笑う声がすぐ耳に飛び込んできて、刀馬は呆然と口を開いた。
ホールにはにこにこと笑みを浮かべる荒神と、もっと嬉しそうな笑顔を見せている武藤夫人と、もっともっと幸せそうに微笑む綾と、それに、見知らぬ男の姿があった。男は綾と同じ年頃の、いかにも優しそうな顔をした好青年だ。刀馬はわけもわからず、談笑する四人の元へ歩み寄って行った。刀馬の姿を捉えた男が、丁寧に頭を下げる。
「あ、こんにちは。ええと、お店の方ですよね。今日はありがとうございます」
頷いてはみたが、全くわけがわからない。どなたですか? という言葉を込めて荒神を見つめてみても、向こうは知らんぷりを決め込むだけ。男の横に立っていた綾が照れくさそうな笑みを浮かべて、深々と頭を下げてくれた。いつの間にか、その左手の薬指には細い指輪をはめている。
「スタッフさん、本当にごめんなさい……びっくりしましたよね。でも、仕掛け人ばっかりだとお父さん騙されてくれないかなと思って。荒神さんに『手伝いの人間がいたとしても、どっきりのタネは黙っておくことにしましょう』って言われてたので、つい」
「どっきり?」
刀馬はもう一度荒神に視線を投げた。荒神はふふん、と得意げな顔をして、片手を上げただけ。悪びれる様子はまったくない。
「そう、どっきりです。僕はちょっと、その……お義父さんに悪いかなって思ったんですけど、お義父さんはそういうの根に持たないほうだから、いいよって言われて」
「ふふ、お義父さんだって。あんなこと言われてもお義父さんって呼んでくれるんだね、智哉くんは」
「お義父さん? 智哉くん? あっ──」
刀馬は声を上げた。智哉と呼ばれた男の隣に寄り添う綾が、やっとわかってくれたか、という表情を見せる。
「そうなんです。智哉くんが死んじゃったとか飛魚の海に身投げしたとか、ぜんぶ噓だったんです。智哉くんが飛魚の出身だってことと、お父さんが智哉くんにひどいことを言ったのは本当なんですけどね。初対面ですごい失礼なこと言われて、私も腹が立っちゃって、ちょっと──脅かそうと思ったんですよ。『怪食亭グストー』さんなら変なオーダーにも答えてくれるから。それで真珠をよく作る牡蠣の話を聞いて、二年かけて荒神さんとストーリーを考えて……」
「そう、あのミカゲガキをうまく使えるような、ちょっと異食で楽しい食卓にしようってね。お父様はミステリ小説や怪奇小説をよくお読みになると伺いました。きっと気に入ってくださっていますよ」
ははと笑い声を上げる荒神に、刀馬は視線を投げた。荒神は笑っている。子供のように無邪気に、そして最高の食卓を用意したという、料理人としてのプライドをちらつかせて。頷く綾が嬉しそうな顔をしているのを見て、刀馬はますます大きく口を開いた。戸惑いながらも、かろうじて言葉を絞り出す。
「つま、つまり、その」
綾と智哉の隣に並んで、武藤夫人もまた誇らしげに目を細めた。刀馬は順番に三人の顔を見比べ、再び口を開く。
「皆さん知っていらっしゃったんですね。牡蠣に入っていた真珠は、人の体の一部なんかじゃないってことを」
刀馬の言葉にけらけらと笑ったのは、武藤夫人だ。小さな子供を諭すような口調で返してくる。
「ああ、ああ、小さい真珠が人の体の一部かもってところは、噓ですよ! 噓、というか思わせぶりだったかもね? その湾には人の体が流れ着くんだぞ! ということは、その真珠の中身は──なんて」
「ええまあ、ミカゲガキの真珠はすべて養殖ですからね。真珠質を作る細胞を付着させた核を入れてやりさえすれば、よく真珠を作るんですよ。品種改良を続けて、真珠入りの牡蠣として売り出すほかには、たとえば特別な核──」
「あれ……お父さん、静かになっちゃったね。トイレから出てきたのかなあ」
階段下のホールを覗き込むようにして、綾がふと荒神の話を遮った。その背をそっと押しながら、智哉がすぐに答える。
「そろそろ見に行ってあげようよ。ネタばらしして、それで……僕もちゃんと言わなくちゃ。今日の本当のサプライズは、そっちなんだから」
智哉の左薬指にもまた、綾と同じ指輪が光っていた。武藤夫人はその輝きをまぶしそうな目で見つめ、また笑い交じりの声を漏らす。
「ふふふ、お父さんったら、牡蠣の比じゃないくらいびっくりするかもね──」
「行こう。ネタばらしと報告がすんだら、荒神さんの焼いてくれたアップルパイを出さないと。お父さん、すっごくアップルパイ好きなんだよねえ」
無邪気に歩き出す綾に続いて、武藤夫人と智哉も階段へ向かって歩いていく。大きな背をぺこ、ぺこと曲げながら歩いていた智哉は、階段を一段降りてから足を止め、一階ホールに残る荒神と刀馬に視線を投げてきた。
「ああ、あのミカゲガキなんですけど──すごく、いいアイデアだと思います。記念となる真珠をその中に忍ばせようっていう取り組みも、ですね」
「ああ、私もいい商品だと思うよ」
荒神は腕を組んだままで、さらりと言葉を返した。振り返る智哉に笑みを投げて、静かに続ける。
「故人が身につけていた装飾品や遺骨などの特別な核を使って、オーダーメイドのパール・オイスターを作りますよ、ってのが目標らしい。いつかはね。真珠大国三重の面目躍如、ってところだろう?」
「ええ──そう──三重の真珠養殖技術は、すばらしいものですから」
にいっ、と笑った智哉の笑顔を見て、刀馬は身をこわばらせる。
智哉の歯茎には犬歯など生えていなかった。
赤黒く、まだ塞がり切らない穴が、その歯があるはずの場所に深く口を開けているだけだった。
「───」
階下へと下りていく背、小さくなっていく足音を聞きながら、刀馬は呆然と口を開ける。無表情な綾の顔。黙って成り行きを見守っていた武藤夫人。息の止まったような武藤氏の紫色の唇に、智哉が見せた笑顔と、荒神の誇らしげな態度。そのすべてがぐるぐる、ぐるぐると頭を廻って、考えをまとめることができない。サプライズ──異様な食卓は異様な体験をもたらす──これが、この男の目指す理想だということなのだろうか? ゆっくりと首を巡らせる。まだ腕を組み、全てを見下すような視線を送ってくる荒神に向かって呟いた。
「あれが……」
娘の綾から依頼を受けて、二年がかりでサプライズを仕掛けてみせた。真珠を作る養殖の牡蠣の存在を知って、それを利用することを決意した。話を盛り上げるために、もっともらしく見せるために、客のひとりは歯を提供してまで──その仕掛けの上に何が築かれるのか、刀馬にはわからない。荒神は笑っていた。低く、削るような声で問いかけてくる。
「最高の食事になっただろう?」
近づいてくる相手に押され、刀馬は思わず身を引いた。相手の射貫くような視線には、どこかこちらの言葉を奪ってしまうような威圧感がある。料理人は先の尖った唇を結び、口角をわずかに上げて、皮肉な笑みを浮かべてみせた。目はまったく笑っていない。刀馬は言葉を絞り出す。
「あれが、荒神さんの言う『異様な食体験』ってことなんですか」
荒神は笑いを消し、刀馬にくるりと背を向けてしまう。地下階へ続く階段へと向かいながら、淡々とした口調で語りかけてきた。
「『怪食亭グストー』では普通の依頼を受けたくないんでね。今回の件に関しては、あの娘さんの怒りの勝利ってところだよ──理解のない父親に大事な相手を否定されて、腹に据えかねるものがあったんだろうさ。これは面白い場面が出来そうだと、ついついやる気になってしまったもんでね。大成功だっただろう? あの親爺、これでちょっとは発言ってものに気を遣うようになるだろう。自業自得だと思うがね」
「いや、それにしても──!」
ああまで脅す必要があったのか、という言葉を吞み込んで、刀馬は拳を握る。振り返った荒神に、胸を冷やすような視線を投げられたからだ。
「何が言いたい?」
「いえ……」
恐ろしいほどに鋭く、突き放すような視線。その色の薄い瞳がほんの一瞬、ほんのわずかに遠いところを見た気がして、刀馬は身をすくめる。息を吐き、心を落ち着かせてから答えた。
「記念日のサプライズパーティーとしては、ちょっとやりすぎかなって思っただけです」
荒神はぴくりと眉を上げ、また片方の口角を上げる。軽くかぶりを振りながら返してきた。
「だったら何を期待していたんだ? ただ単に楽しいだけの食事を見ていたいっていうんなら、表参道あたりの洒落た店でも覗いてこい。お前の思い描く理想の食卓がどんなものかは知らんが、うちにはそんなきれいなものはない。食卓はもっと過激で、刺激的で、そして、闘うものであるべきじゃないのか」
切り捨てるように言い放って、荒神は地下階へと続く階段に足を踏み出す。肩をすくめ、笑みを浮かべたままの顔で振り返ってから、一息に言い放った。
「──幸せな食卓なんていうものを、私は信じていないんでね」
刀馬ははっと息を吞む。胸の奥、自分でもわけがわからないほどにもろい部分を摑まれた気がして、心臓が大きく脈を打った。幸せな食卓。あの仲のよさそうな母と娘、そして誕生日を祝われるべき父親を見て、自分は何を考えただろう?
明るく楽しく食事をしてほしいと思ったのではないか──その背後に隠された事情も知らず、彼らが「家族」であるというだけで。
荒神はふっと顔を逸らし、急な階段を一歩ずつ、ゆっくりと下り始める。数歩下ったところで足を止めて、からかうような口調で言葉を飛ばしてきた。
「ああ、そうそう。お前の働きぶりはなかなか悪くない。使えないやつなら放り出して金策させるところだったが、まあいい。うちの店で正式に使ってやろう。仕事はすべてうちのシフトを優先させろ。金を返すまで、逃げられると思うな──」
階下に消えていく背中を見送りながら、刀馬はその場で立ち尽くしていた。
──幸せな食卓なんていうものを、私は信じていないんでね。
階下からはアップルパイの匂いが漂ってくる。その香ばしい匂いだけが、動けない刀馬の鼻をひたすらにくすぐり続けていた。
