人生の1シーンを描いた映画のような、奇跡と感動のストーリー「バッタが逃げた。」『ショートフィルムズ』③
公開日:2019/9/3

ブックショート(米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジアが展開する短編小説公募プロジェクト)とのコラボレーションした、書籍『ショートフィルムズ』。感動的な短編映画を観たような読後感の、傑作短編全25話を収録! 本書への入り口は、セリフのないサイレントマンガで始まる。マンガは各短編の合間に入り、物語全体をひとつの世界につなぎ、最後に驚きの結末が…。
バッタが逃げた。
事件は、土曜の昼下がり、俺が息子と2人きりで家にいたときに起きた。
居眠りしている俺の隣で、4歳の息子が飼育ケースを開き、バッタに逃げられてしまったのだ。きっと暇を持てあまして、バッタで遊ぼうとしたのだろう。
大泣きしている息子の横で、俺はげんなりと飼育ケースを見つめた。3匹いたはずのバッタが、1匹残らず消えている。
「……聡太。勝手に開けないって、ママと約束してただろ。ママ、すっごく怒るぞ」
「だって、ぼくは、バッタを、バッタを……えぇぇーーん」
泣くなよ聡太、俺が泣きたい。鬼と化した妻の形相が目に浮かぶ。
妻はいま2人目を妊娠中だ。つわりで体調が悪いためか、機嫌が悪いときが多い。
「バッタが……バッタがにげちゃったよぅ。えぇーーん」
鼻水ぐしょぐしょの顔を、俺の胸にこすりつけて泣きじゃくる聡太。聡太はバッタが大好きだ。幼稚園の園庭にバッタがたくさんいるそうで、先日バッタを握りしめて園バスから降車してきたらしい。
「ママ、 バッタ3コもとったよ! いっしょにおせわしよ!」
ワガママ・マイペースなこの4歳児に、お世話なんてできっこない。妻にすべてが任されるのは、火を見るよりも明らかだった。飼うなんて面倒だし、バッタなんて逃がせばいい……と俺は思うんだが。4歳児のきらきら眼を実直に受け止めた妻は、飼育環境を整えた。そして案の定、「聡太の世話で手一杯なのに、なんでバッタの世話までしなきゃなんないのよ」と愚痴りながら毎日1人で世話をしている。
妻には悪いが、虫嫌いな俺はバッタにノータッチだ。息子にとっては可愛いバッタでも、俺には「ゴキブリもどき」にしか見えない。ゴキブリを細く伸ばして緑色に塗って、太股をたくましくすればバッタじゃないか。あの触角が気持ち悪い。すね毛を見るとぞっとする。
「パパ、どうしよう」
……あぁ。妻が帰れば、聡太はひどく叱られるだろう。そう思うと胸が痛い。居眠りして目を離していた俺にも、少しは責任があるわけで。
「泣くなよ。ママが帰る前に一緒に捕まえよう。俺も……イヤだけど、がんばるから」
かくして、俺たち父子の室内バッタ捕獲作戦が始まったのであった。
さっきまで泣いていた聡太は、いまや狩人と化していた。
「パパ! いた、あそこだ」
えっ、どこ? 虫取り網を握って挙動不審になる俺とは対照的に、聡太は冷静そのものだ。
「おだいどこだよ」
息子の指は、台所にある冷蔵庫の前のビニール袋を指していた。袋の中からのぞく緑色の束は、冷蔵庫に入れ損なって放置されている万能ネギ。バッタめ、見事な擬態じゃねぇか。
「聡太、おまえ目がいいな」
「あのシューってやるのつかってみようよパパ! ゴキブリつかまえるシューっていうの」
「捕まえられるけど、死んじゃうからダメだ」
今回は生け捕りせねばならんのだ。ぅらぁぁぁあああ! と叫んだ俺は万能ネギめがけて網を振り下ろしたが、逃げられてしまった。
「もう! おおきな声をだすから、にげちゃうんだよ」
「ご、ごめんな」
羽ばたいたバッタは、台所の白い壁タイルに止まった。
「こんどは、ぼくがやる」
聡太は、そろり……そろりとバッタに近寄り、素手で軽やかにバッタをつまんだ。
「ほら! とったよ。パパ、見て見て!」
「まだあと2匹いるんだぞ」
「そっか。あ! テレビのよこにいる!」
「えっ、まじ!?」
そんな調子で俺たちは、家中派手に散らかしながら、1匹ずつ回収していった。
そして。なぜか1匹増えた。
ゴミ箱が倒れて雑誌が散らかり、荒れ放題のリビング。
「……なぜだ。なぜ増えた」
飼育ケースの中の4匹のバッタをにらみ、俺は眉間にしわを寄せた。
息子は名探偵よろしく、人差し指を立てて自信満々にこう言った。
「赤ちゃんが生まれたんだね」
「いや。さすがにサイクル早すぎるだろ」
3匹しかいないはずなのに、なぜ4匹も部屋にいたんだ? 俺が首をひねっていると。
かちゃりと突如、玄関で鍵の音がした。
「―ただいま」
まずい。妻が帰ってきた。散らかりきったリビングと、なぜか増えてる我が家のバッタ。妻にどう説明すればいい? 俺はうろたえた。
「え!? なにこの部屋。なんでこんなに散らかってるの?」
部屋に入るや、妻が「説明しろ」と言わんばかりの鋭い目線を俺に゛突き刺してきた。
「あぁ、絵理おかえり……あのさ、部屋の中になぜか1匹バッタがいたんだよ。放っておくのもどうかと思って、聡太といっしょに捕まえてたんだ。ほら」
そう言って、俺は4匹入った飼育ケースを指さした。
1匹捕まえる前に3匹逃がしてしまったことは、嫁にはナイショだ。
「…………バッタ?」
妻が微妙な顔をした。なぜか気まずそうに、目線をさまよわせている。
「たかがバッタ1匹のことで、こんなに派手に荒らしたの?」
「せっかく聡太が捕まえてくれたんだから、そんな怖い顔するなって」
「散らかった部屋、誰が片づけると思ってんの」
「俺もやるよ」
「パパの片づけなんて、右から左にちょっと物が動くだけでしょ」
ひどい。
「めんどくさいわね……バッタなんて、増えても減ってもどうでもいいわよ。わたしの仕事増やさないでよ。パパが一緒にいたのに、なんで役に立たないの?」
「そんな言い方ねぇだろ。俺だって、おまえの手間を減らしてやろうと思って、触りたくもないバッタを頑張って捕まえたんだぞ。4匹も」
「4?」
1ではなくて? と妻が眉をひそめた。しまった、墓穴掘っちまった。
「そう、4ひきだよ。ぼくがケースあけたら、ぜんぶにげちゃったんだ。でも、ぼくが、ぜんぶつかまえたんだよ」
あぁ! 聡太のバカ正直!
「聡太、あんた勝手にケース開けたの?」
「あ……」
言っちゃダメだということを、言ってしまってから聡太は気づいた。だがもう遅い。
「勝手に開けちゃダメって言ったでしょ! どうして約束を守れないの!?」
空気を震わす妻の怒声……息子が青ざめた。俺は聡太をよしよししながら言った。
「おい絵理……なにも、子ども相手にそんなに怒らなくても」
「なによ、私の苦労も知らないで! パパはいっしょにいたくせに、どうしてちゃんと見てないの? 完全に役立たずじゃない」
「そこまで言うか!」
お互い怒鳴り気味になり、夫婦げんかが始まりかけたそのとき。
「……ごめんね。ごめんねぇ」
幼い聡太が小さな声を震わせた。
俺と絵理がハッとして聡太を見ると、聡太はぽたぽた涙をこぼしていた。
「ごめんねぇ。こんどはちゃんとがんばるから。もう、しっぱいしないから」
絵理は静かな顔になり、しゃがんで聡太をのぞき込んだ。
「失敗って。そんなにバッタと遊びたかったの?」
ちがうよぅ、と、聡太はべそをかきながらふるふる首を振った。
「ママのかわりに、バッタにキュウリあげようとしたんだ……ママがいつもたいへんだから……ぼくがかわりに。そしたらママ、らくちんでしょ?」
夫婦そろって、同時に言った。
「聡太が、お世話を?」
俺たちは、聡太がバッタで遊ぼうとしていたんだと誤解していた。しかし息子は息子なりに、ママを気遣っていたらしい。ワガママばかりで手の掛かる子どもだと思っていたのに……いつの間にやら、人を気遣う心を育てていたとは。
絵理は、聡太をぎゅっと抱き寄せた。
「聡太、そうだったの? 怒ってごめんね。ありがとうね」
「でも、キュウリあげるまえに、にげちゃった。ぼくダメだ。しっぱいしちゃった」
「そんなことないわよ。ママだって、失敗ばっかりよ。……実はね」
気まずそうに沈黙してから、絵理はふたたび話し始めた。
「実はママもね。おととい、1匹逃げられちゃったのよ」
なぬ?
「どうしても見つからなかったから、公園で新しいのを捕まえて、ないしょでケースに入れておいたの。聡太は、迷子のバッタも見つけてくれたのね。バッタ探すの、本当に上手ね」
なるほど。だから4匹になったのか。
聡太は足し算がわからずママの話が分かってないみたいだが、まぁ、細かいことはいい。
「1人でバッタ捕りに行ったのか? 体調が悪いのに、無理して捕りに行かなくても…」
「だって。聡太がこんなにバッタを可愛がってるんだもの。悲しませたくないじゃない」
「なら、俺に言ってくれれば、代わりに捕ってきてやるのに」
絵理は、気の抜けた顔で笑った。
「でもパパ、虫が怖いんでしょ? 仕事も忙しそうだし、頼んだらかわいそうな気がして」
絵理。いつも仏頂面だったくせに、密かに俺を気遣ってくれていたのか……。
バッタのお陰で息子と妻の優しさを思いがけず実感してしまった。なんだか無性に、じぃーーん……と来て、俺は2人を抱きしめた。
「バッタを飼って、よかったな俺たち」
え、なんでそうなるの。とちょっと不可解そうな妻と、 うん、もっといっぱい捕まえようね、とよく分からないながらも嬉しそうな聡太を力一杯抱きしめながら、俺は飼育ケースの4匹を見た。
ありがとな、バッタ。
バッタが起こした珍事件は、こうして幕を閉じた。
その夜、缶ビールを飲みながら、俺はそっと寝室をのぞいてみた。大の字になって眠る聡太と、聡太を寝つかせているうちに寝落ちしてしまった絵理がいる。
寝室に置かれた飼育ケースの中で、4匹のバッタが跳ねてばしん、ばしんと音を立てていた。
餌のキュウリは、しおれかけている。
「絵理。毎日、おまえばかりに世話を任せて、悪かったな」
俺はキュウリを切ってから、飼育ケースを手に取った。俺が手伝えば、絵理の苦労も少しは減るに違いない。これからは俺も手伝うよ。絵理の寝顔に微笑みかけて、俺は飼育ケースの小窓を開けた。そして、バッタにまた逃げられた。
(作 越智屋ノマ)
表紙写真:岩倉しおり