脂肪がほぼ無いわたしが、体型維持のためしていること。/ 大石圭『溺れる女』③
公開日:2019/9/9
――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

3
その晩、東京駅近くのフランス料理店の窓辺のテーブルに向き合って、わたしたちはフルコースのディナーを食べた。
一博が予約したのは、フランスで修行をした三十代のシェフが何年か前にオープンさせた店だった。その店はもともと評判が良かったようだが、シェフがコンテストで金賞を受賞してからは人気に火がついて、今夜の予約を取るのに一博は苦労したようだった。次々と運ばれてくる料理の数々は、料理も器もとても美しくて、手をつけてしまうのがもったいなく感じられるほどだった。
手の込んだものを食べ慣れていないわたしには、料理の味はよくわからなかった。それでも、美食家の一博が「美味しい」「美味しい」と笑顔で繰り返していたから、わたしも彼に合わせて「美味しいわね」という言葉を何度となく口にしていた。
落ち着いた雰囲気の店内には、音量を抑えた音楽が流れていた。テーブルの中央には小さな蝋燭が立てられていて、その先端でオレンジ色の炎が揺れていた。それぞれのテーブルには小さな花瓶に生けられた花が飾られていて、わたしたちのテーブルにはピンクのガーベラが生けられていた。
ソムリエが料理ごとに合わせて選んでくれる白や赤のフランスワインを飲みながら、わたしたちは近く購入するつもりの新居の話をした。
庭に囲まれた家で育ったという一博は、庭付きの一戸建てを買いたがっていた。今、新居として第一候補に上がっているのは、横浜の丘の上に建てられた新築の一戸建てで、その家の窓からは遠くに横浜港を望むことができた。
「僕と同じように食べてるのに、奈々ちゃんはちっとも太らないんだね」
チューリップ型の大きなグラスを手にした一博が、まじまじとわたしを見つめて言った。
どう返事をしていいかわからず、わたしは一博の丸顔を見つめて無言で微笑んだ。
「僕なんか、水を飲んでも太るのに……奈々ちゃん、その体型を維持するために、何か特別なことでもしているのかい?」
「特別なことなんて、何もしていないわ」
口の中の牛フィレ肉を飲み込んでからわたしは言った。けれど、それも嘘だった。
新居の話のあとでは新婚旅行の話をした。一博の提案で、わたしたちはイタリアを訪れることになっていた。ローマ、フィレンツェ、ベネチア、ジェノバをまわるという十日間のツアーで、日本とイタリアとの往復には旅客機のビジネスクラスを使う予定だった。
「奈々ちゃんとふたりで、イタリアを旅できるなんて夢のようだよ」
嬉しそうに一博が言った。彼は国立大学の経済学部の学生だった頃に、ひとりでイタリア各地を貧乏旅行したことがあるということだった。
二種類のデザートを食べ終え、コーヒーが運ばれて来た時に、わたしは店の片隅にあるトイレに向かった。
店内と同じようにトイレの中はとても清潔で、音量を抑えた音楽が流れていた。棚には小さなガラスの花瓶が置かれ、そこに白いミニ薔薇が活けられていた。
ドアにしっかりと鍵をかけてから、わたしは白い便器の前に蹲った。そして、便器に顔を近づけ、骨ばった指を口の中に深々と押し込み、指先で舌の奥を強く圧迫した。
すぐに胃が痙攣を始めた。その直後に、たった今食べたばかりのものが口から勢いよく飛び出し、真っ白な便器の中に流れ落ちた。
途中でわたしは顔を上げ、トイレの水を流した。それから、再び便器に顔を近づけ、胃の中のものをすべて吐き出してしまうために口の中に指を押し込んだ。
一博と夕食をとったあとのわたしは、いつもこんなふうにして食べたばかりのものを便器に吐き出していた。一博と一緒でない時も、食べすぎたと感じた時には、ためらうことなく嘔吐していた。
摂食障害。
そういうことなのだろう。食べるということに、わたしは罪悪感のようなものを抱いているのだ。
再び水を流しながら、わたしはあの男の顔を思い浮かべた。わたしが摂食障害になってしまったのは、坂道で擦れ違ったあの男のせいなのだ。
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。