絶えず飢えているわたしの肉体…40キロの体重に焦ってトイレへ駆け込むも/ 大石圭『溺れる女』⑦
公開日:2019/9/13
――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

7
一博とわたしがラブホテルを出た時には、時刻は午後十一時になろうとしていた。
いつもそうしているように、今夜も一博がタクシーでわたしを世田谷区にあるマンションまで送ってくれた。
「カズさん、部屋に寄っていく?」
タクシーを降りる前にわたしは訊いた。
「そうしたいところだけど、あしたも早いから、このまま帰って寝ることにするよ」
タクシーの後部座席に窮屈そうに座った一博が笑顔で言った。
一博はいつも午前七時すぎに出社していた。会社を出られるのはどんなに早くとも午後八時ぐらいで、たいていは九時か十時、遅い時には真夜中までオフィスで働いていた。
「わかったわ。それじゃあ、おやすみなさい。また日曜日にね」
わたしは笑顔で言った。かつてはここまでのタクシー代を支払おうとしたことがあったが、一博が決して受け取らないので、今はそれを口にすることはなかった。
「うん。おやすみ、奈々ちゃん。また日曜日に」
一博が笑顔で応えた。次の日曜日には、わたしたちは新居となる家を探しに横浜に行く予定だった。一博は基本的には住宅街の一戸建てを希望していたが、次の日曜日はみなとみらい地区のタワーマンションを見に行くことにしていた。
一博が乗ったタクシーを見送ってからエントランスホールに入ると、十年以上のあいだ、ほとんど毎日そうしているように、わたしは『1103 平子』と書かれたメールボックスの中を確認してから小さなエレベーターに乗り込んだ。大学に入学するときに契約したこのマンションに、二十九歳の今もわたしは暮らし続けていた。
このマンションはすべての部屋が、二十五平方メートルのワンルームという造りになっていた。『もう一部屋あれば』と思うことがないわけではなかった。けれど、わたしの部屋が最上階で上からの物音がしないことや、窓からの眺めがとてもいいこと、浴室とトイレが別になっていること、それにエントランスホールにもエレベーター内にも各階の廊下にも防犯カメラがあって、治安が良さそうなことなどが気に入っていた。
十一階にある自室のドアを開けると、真っ暗な室内に向かって、わたしは小声で「ただいま」と言った。
そこで誰かが待っているというわけではなかった。それでも、部屋に戻るとそう口にするのが昔からの癖だった。
自室のドアを開けると、玄関のたたきにパンプスを揃えて脱いでから、わたしは壁のスイッチに触れた。
その瞬間、LED電球の強い光が、狭い室内を隅々まで照らし出した。
わたしの部屋にはシングルサイズのベッドと、小さなテーブルと二脚の椅子と、あまり大きくない木製の本棚があるだけで、時には少し殺風景にも感じられた。けれど、その部屋は本当に狭かったから、わたしはできる限り家具を置かないようにしていた。かつてはドレッサーがあって、毎日、その前で化粧をしたものだったが、何年か前にそのドレッサーは破棄していた。
冷房を使うことのない室内には、ムッとするほどの熱気が満ちていた。その暖かさにわたしはホッとした。
帰宅するといつもいちばんでそうしているように、わたしは浴槽に湯を張り始めた。そして、小さな浴槽に湯が溜まるのを待つあいだに、洗面台の前で化粧を落とし、左薬指に嵌められた婚約指輪を外した。その後は、飾り気のない服と、機能的な木綿の下着を脱ぎ捨てて全裸になり、洗面台の上の鏡に上半身を映した。
入浴前に鏡に体を映して、その隅々までをチェックするというのが、何年も前からの習慣だった。どんなに疲れて帰宅した時でも、それを怠ったことはなかった。
今夜もわたしの肩は鋭く尖っていた。鎖骨の内側には深い窪みができていて、そこに液体を注ぎ入れることができそうだった。乳房は少女のように小ぶりで、わずかばかりの膨らみしかなかったけれど、形良く張り詰めて上を向いていた。左右の二の腕もほっそりとしていて、贅肉は少しもついていないように見えた。
その細い腕をゆっくり頭上に掲げる。そうすると、左右の脇腹に肋骨がくっきりと浮き上がった。今夜もウェストは細くくびれていた。贅肉のつきやすい腹部にも余分な肉は一切なく、左右の腰からは腰骨が突き出していた。
大丈夫。いつもと同じだ。
心の中でわたしは呟いた。いつもと違うのは、一博に執拗に吸われ続けた左右の乳首の周りが、うっすらと赤くなっていることだけだった。
摂食障害の人の多くが寒がりで、少しでも寒さを防ぐために体毛が濃くなると聞いたことがあった。けれど、もう何年も前にわたしは全身脱毛を施していたから、体毛が濃くなることを心配する必要はなかった。
体のチェックを済ませると、入浴前にはいつもしているように、わたしはすぐそばに置かれているデジタル式の体重計に静かに乗った。
「えっ? 嘘でしょ?」
わたしは思わず声を出した。体重計のパネルに『40.0』という数字が表示されたからだ。体重が四十キロに達したのは、実に久しぶりのことだった。
軽いパニックに陥ったわたしは、慌ててトイレに駆け込んだ。そして、全裸のまま便座に腰を下ろし、膀胱を振り絞るかのようにして排尿をした。
フランス料理店を出る前に、胃の中のものはすべて吐いてしまったつもりだった。それでも、その前にいくらかの食物が体内に吸収されてしまったのだろう。絶えず飢えているわたしの肉体は、ほんの少しの栄養素も逃すまいと、胃に入ってくる食物をいつも待ち構えているのだ。
最後の一滴まで尿を振り絞ると、わたしは浴室に戻った。そして、目を閉じてから、恐る恐る体重計に乗った。
そっと目を開いて足元を見下ろすと、体重計には『39.9』という数字が表示されていた。
それは決して満足のできる数字ではなかった。それでも、四十キロを切ったことにわたしはいくらかほっとした。
ベッドに入る前に、部屋の窓を少しだけ開けた。その瞬間、重なり合うかのような虫の声が耳に飛び込んできた。
このマンションのすぐ前には大きな公園があって、夏から秋にかけてそこでたくさんの虫が鳴いていた。そんな虫たちの声を耳にしながら眠るというのが、この季節のわたしの楽しみのひとつだった。
毎晩そうしているように、今夜もわたしはルイボスティーを淹れ、湯気の立ち上るカップを持ってベッドに入った。
寒がりのわたしは、こんな季節にもネルのパジャマを身につけていた。少し前までは靴下を履いてベッドに入ることもあった。
ベッドの背もたれに寄りかかって熱いルイボスティーを啜りながら、わたしはサイドテーブルに載せてある文庫本を手に取った。高校生の頃から擦り切れるほどに読み返している、サマセット・モームの『月と六ペンス』だった。
『月と六ペンス』は、絵を描きたいという欲望のために妻子を捨てた、チャールズ・ストリックランドという男の物語だった。その本を読み返すたびに、わたしはストリックランドを自分勝手なやつだと思った。思いやりのない、最低な男だとも思った。
それにもかかわらず、どういうわけか、わたしはストリックランドに惹かれた。
もしかしたら、わたしは、自分勝手で冷酷な男に惹かれるのかもしれなかった。
閉じたままの『月と六ペンス』を手にしながら、わたしはまた江口慎之介のことを考えた。彼は自覚していなかったかもしれないが、彼にも冷酷で自分勝手な一面があった。
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。