アパートの階下で起きた孤独死。ある日、玄関を出ると奇妙な感覚に襲われて…/蝦夷忌譚 北怪導⑤
公開日:2020/6/8
大ヒットご当地怪談『恐怖実話 北怪道』の続編がよりディープになって帰ってきた! 道内の民家や住宅地など生活圏内で、いま現在進行形で起きている怪事件、霊現象… 実はあなたの周りにも⁉ もっとも身近で恐ろしい北のご当地怪談を試し読み。

膜
手塚さんは千歳市のアパートで暮らしている。
実は入居前に、手塚さんの下の階で孤独死が出ていたことは知っていた。
不動産屋との交渉で、通常は該当する部屋が値引き対象になるのだが、瑕疵物件という言葉を使いまくった挙句、若干割引された家賃で入居できるようになった。
元々手塚さんは霊やらには興味がない。
人はいずれ死ぬものだし、孤独死なんてこの時代、普通のことである。
死んだ後は霊になるのかもしれないが、見えないものに怯えるほど暇ではない。
そのような考えから、階下のことはすっかり忘れて生活していた。
入居から二年程が過ぎていた。
日付は今もはっきりと覚えているが、三月の十九日である。
会社に向かおうと玄関を出たとき、何か目に見えない膜のような物を擦り抜けた感覚に襲われた。
その後、少しの間は眩暈のような症状が出ていた。
落ち着きを取り戻した後は、気の所為と言い聞かせて仕事へ向かった。
帰宅したとき、階段の踊り場で足が止まる。
そこは一階下のスペースで、目の前には手塚さんの下の部屋のドアがあった。
表札は掛かっていないし、ドアに備えられた郵便物用の受け口は養生テープで封がされていた。
人が住んでいないことはそれだけで確認ができた。
それまでにその場で立ち止まったことなどない。
(何故に今日に限って気になってしまったのか?)
そう疑問に思いながら手塚さんは帰宅した。
翌朝、出勤しようと玄関を出ると、また奇妙な感覚を味わう。
今度はもっとぬめりのある質感の膜を擦り抜けた。
また眩暈のような感覚に襲われ、少しの間、その場にしゃがみ込んだ。
(貧血かなぁ。疲れでも溜まっているんだろうか)
そのような自覚は全くなかったが、後で暇を見て病院へ行こうと思った。
万が一に備え、手塚さんはゆっくりと階段を下りていく。
そして一階下の踊り場で足が止まった。
昨夜は郵便物の受け口にはテープが貼られていた。
それが今はない。
誰かが剥がした可能性もあるが、わざわざよそさまのドアにそんなことをするだろうか?
手塚さんの疑問は膨れ上がる。
何の気は無しに、インターホンを押してみた。
『ピンポーン』
チャイム音が聞こえた。
通常、空き部屋の場合はブレーカーを落としている為、インターホンが作動することはない。
薄気味悪さを感じ、その場から逃げ出そうと階段を降り始めた。
すると突然、殊更に強い眩暈を感じて身体がぐらつき、姿勢を上手く保てない。
その後、身体のあちこちに猛烈な痛みが走った。
どうやら階段を転げ落ちた、と認識しつつ、意識が遠くなっていった。
目が覚めると、何処かの部屋の床に寝転がっていることが分かった。
部屋だと分かったのは、見覚えのある天井のクロスが自室の物と同じだったからである。
起き上がろうとするが、何故か身体が動かない。
手塚さんはそのままの状態で、必死に目だけを動かして、様子を窺おうとする。
(俺の部屋じゃないな……)
手塚さんの部屋より小さめの冷蔵庫がギリギリ見えた。
察するに、単身世帯だと思われる。
状況から判断すると、通りかかった誰かが、階段で転がっていた自分を保護してくれたのだろうと納得する。
しかし、助けてくれた誰かは一向に姿を見せてくれないし、自分の身体はピクリとも動かない。
(これってヤバくないか? もしかしたら俺は死にかけている状態じゃないのか?)
時間が経過していく内に手塚さんの中で、どんどんと焦りが生じてくる。
――死にたくない。
心からそう願ったとき、見知らぬ誰かが手塚さんの真横に倒れ込んできた。
何故かその人の腕は手塚さんの胴体を擦り抜けていると思われる。
そうでなければ、位置関係的におかしい。
そして手塚さんの顔の真横には、誰かの顔がある。
か細い息遣いが手塚さんの頬に当たってくる為、こちらを向いていることは伝わる。
(何だよ、これ。怖いって……)
手塚さんは暫くの間、天井を見るようにして、真横の顔を見ないようにしていた。
そうしている内に、誰かの息遣いは徐々に弱くなっていく。
完全に途絶えた瞬間、(これって死んだのか?)という疑問が彼の中で湧き上がってきた。
見るのは怖い。が、真横に死体があると想像するともっと怖い。
(くそっ!)
手塚さんは徐々に目の玉を動かし、真横の人の生存確認をしようとする。
髪の毛や頬筋の輪郭から男性であるように思われた。
肝心の顔の確認までは、首が動かないのでできそうにない。
そう思ったとき、手塚さんの首がグルリと回った。
眼前には見知らぬお爺さんの顔がある。
瞳孔が拡大しており、少し開いた口からは涎のようなものが垂れている。
「うわぁー」
変な悲鳴が出た瞬間、手塚さんの身体は自由になる。
その場から飛び退き、一定の距離を保った状態で横になっている老人を見下ろしていた。
(マジかよ。どうすんだよ、これ……)
完全に思考が混乱に陥り、答えが見つからない。
その場から逃げ出したいが、足が震えて上手く動いてくれない。
(あっ……)
急激な眩暈に襲われ、手塚さんは倒れ込んだ。
意識が遠のく中、見知らぬ老人の顔が真横に見えていた。
このまま自分も死ぬのかもしれない。
そう思いながら、気を失った。
それからどれくらいの時間が経ったのかは分からない。
ただ、手塚さんが目覚めると、真っ暗な室内にいた。
照明のスイッチに手を伸ばそうとして起き上がると、身体のあちこちが痛い。
灯りを点け、室内を見回してみる。そこが手塚さんの寝室であることが分かった。
寝巻き代わりにしていたスウェットを捲り上げると、方々に青痣ができている。
軽く指で押してみたが、痛みが増す。
どうやらそれ程は時間が経っていないようだ。
(あっ、あの老人は?)
手塚さんの家を探し回っても、何処にも老人の姿は見当たらない。
(夢でも見ていたのだろうか?)
スマホを確認すると、午前三時を回っていた。
そして手塚さんの思考は完全にループに陥る。
――スマホ画面の日付が三月二十日を表示していたのだ。
(いや、間違いなく二十日は家を出ていた。そこで具合が悪くなって、階段から落ちて……)
実際に手塚さんの身体には無数の打撲痕が残っている。
仮に十九日の段階で何かがあったとしたら、それくらいは覚えているに決まっている。
一体何が起きているのか……。
答えは出ないまま朝を迎えた。
手塚さんは二度目の二十日を過ごすことになった。
やはり玄関を出ると、奇妙な膜を擦り抜けた。
同じように眩暈に襲われながら、階下の踊り場に到着する。
記憶の通り、階下の部屋の郵便物の受け口はテープが剥がされていた。
流石にインターホンを押すのは止そうと思い、その場から立ち去ろうとした。
『ガチャリ……』
手塚さんの背後から、ドアが開く音がする。
恐る恐る振り返ると、少し開いたドアの隙間から覗かせている上半分の顔が見える。
――あの老人の顔に間違いない。
一瞬だけ〈生きていた〉と安堵したが、そんな筈はない。
老人の顔からは血の気が失せており、目の玉は濁ったように白く膜のような物が貼られていた。
「うわぁーーーー!!」
眩暈のことなどすっかり忘れて、手塚さんは階段を走り抜けた。
誰でもいいから少しでも早く人に会いたいと思い、広い通りを目指して走り続けた。
「結局、その日は遅刻ですよね。漸く人を見つけても、みんな通勤の途中だろうし……」
最終的に手塚さんはコンビニに逃げ込み、落ち着きを取り戻してから出勤した。
仕事が終わり、帰りたくはないが、アパートに戻るしかない。
足取りも重く、階段を上っていく。
例の部屋の郵便物の受け口には、しっかりと養生テープが貼られていた。
自分の記憶違い、錯覚と色々なことを考えたが、打撲の痕は暫くの間、残っていた。
それ以降、あの老人に遭遇することはないが、時折出勤時に膜を擦り抜けた感覚と、眩暈に襲われることはある。
そんなときは階下の部屋のドアは見ないようにして、無理矢理にでも足早に通り過ぎることにしている。
「何であの日だったんでしょう?」
そう訊ねる手塚さんだったが、その質問は答え合わせをしたいだけのように思えた。