【上白石萌音 初エッセイ集を試し読み!】降る/上白石萌音『いろいろ』③
公開日:2021/10/1
上白石萌音さんの初エッセイ集『いろいろ』。「本が好き」という上白石さんによる、ありのままの思いがつづられた書き下ろしの50篇におよぶエッセイ。今回は、本書から「降る」をご紹介。さらに、連載最後ではダ・ヴィンチニュースのためだけに上白石さんが書き下ろしたエッセイも特別掲載! 俳優・歌手・ナレーター、そして文筆業と、活動の幅を広げる彼女の「今」は必見です。


降る
金曜の夜、観劇の帰り。
とても考えさせられるお芝居で、その素晴らしさがガツンと来て、タクシーのなかで根を詰めて考えていた。心臓の鼓動が速くて脳が煮えてきて、助手席の背の取っ手をぼうっと見ていた。そこへ、トツ、トツ、としずくの音が聞こえて我に返る。
家の少し手前で降車して、雨のそぼ降る夜道をとぼとぼ歩く。細い路地に大きな黒い車が止めてある。さて右と左どっちに避けようか、とぼんやり立ち止まる。ヘッドライトに無数の雨の糸が照らされていて、「いい線だな」と思う。今朝おろしたおしゃれな傘がボツボツ鳴って、「いい音だな」と思う。しっとりとした空気をいっぱい吸う。
東京は雨が降っても匂いがしない。鹿児島では、火山灰のあとに雨が降ると、なんらかの化学反応によって硫黄の匂いが立ち込めるのだ。鹿児島には雨の日の匂いがある。東京にはない。
そんなことを考えていると車の持ち主さんが「あ、すみません」と小走りで戻ってくる。「とんでもないです」と返してまた歩く。
マンションの前に着くと、綺麗に手入れされた植物の葉っぱが、雨粒に打たれて跳ねている。踊っているみたいで面白い。この草もわたしもよく頑張っているなあと思う。
雨が嬉しい人もいるから、天気予報では雨を形容するのにマイナスな言葉を使わないらしい。それを知ってからわたしは雨が降るたびに、「笑っちゃうような雨」とか「心ばかりの雨」とか、密かに命名してニヤニヤしている。雨が憂鬱な日にはお試しあれ。