「自分は血の袋のようなものだと思っていた」と語る千早茜。そんな彼女が“傷”をテーマに描いた短編集への思いとは〈インタビュー〉

文芸・カルチャー

公開日:2024/6/14

千早茜さん

2024年4月26日、直木賞作家の千早茜さんが短編小説『グリフィスの傷』(集英社)を刊行した。

「傷」をめぐる10編の物語が収録された本作は、痛みの向こう側にある癒やしと再生が描かれている。これまで、『あとかた』や『からまる』など、数々の連作短編集を世に送り出してきた著者が、本作ではそれぞれ独立した短編を書き上げた。

著者が本書に込めた想い、「傷」に対する思い入れ、「傷」と「傷痕」の違いについてうかがった。

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「同じ傷はない」――それぞれ異なる傷痕の物語を書きたかった

――「傷」にまつわる物語を執筆したきっかけを教えてください。

千早茜(以下、千早):もともと傷が好きで、子どもの頃から傷に興味がありました。過去作品の『あとかた』(新潮文庫)で、気持ちの証として自分の体に傷を残す女の子を書いたことがあるんです。『あとかた』は、「遺すもの」「遺せないもの」をテーマに執筆した作品なのですが、この短編集を書き終えたあと、「どうしても残ってしまうもの」として、いつか傷の話を書きたいなとずっと思っていました。

 でも、『あとかた』が直木賞の候補になったこともあり、それからは長編の依頼が増えて。特にエンタメ誌は長編を求められることが多いので、なかなか短編集を書く機会が得られませんでした。そこで、担当者が「純文だったらより自由に短編を書ける」と月刊文芸誌『すばる』を勧めてくれて、連載がはじまりました。

――なぜ短編にこだわったのでしょうか。

千早:やっぱり「同じ傷はない」というのを書きたくて。いろんな傷があることを提示したかったので。長編にすると不自然に傷痕のある人が集結する物語になってしまうし、そうなると、形成外科を舞台とした病院ものなどに絞られますよね。(笑)

 私は、人の傷に対して安易に「わかるよ」みたいな感じを出すのも嫌なんです。それで書いたのが、「この世のすべての」。外傷ではなく、心に負った傷の話です。バツンと容赦なく切るラストシーンなのですが、これは短編だからこそできました。

――本書は、「つけられた傷」だけではなく、「つけてしまった傷」についても描かれている点が印象的でした。「つけてしまった側」が抱える重責や痛みを書こうと思ったのには、理由があるのでしょうか。

千早:それは、被害者だけを書くのはフェアじゃないからです。「傷」について語る時、自分も加害者になる可能性を絶対に忘れちゃいけない、と思っていて。故意にしろ、無意識にしろ、誰かを傷つけてしまうことは絶対にあるので、悪意のある加害者の話を一篇入れようと決めていました。

 正直なところ、本書の物語はどれも『グリフィスの傷』というタイトルが当てはまるんですよね。ガラスについた目に見えない傷のことを「グリフィスの傷」と呼びます。その傷のせいで、強いはずのガラスが何かのはずみに儚く割れてしまう。では、どの傷にこのタイトルを当てはめようかなと考えた時に、加害者の話にしよう、と。被害者側の「傷つけられた」話だけだと、自分が加害者になる可能性を忘れてしまう気がしたんです。

千早茜さん

心の傷は目に見えない。でも、「それは加害」だと伝えたい

――表題作の中に、「いや、わたしだけではない、もっとたくさんの人があなたに酷い言葉をぶつけている、わたしだけのせいではない」という一文があります。この台詞は、「悪意ある加害者」の姿として、千早さんのイメージに近いものでしたか。

千早:そうですね。例えば1話目の「竜舌蘭」はいじめの話ですが、傷つける側はみんなでやることが多いんです。表題作で書いたSNSでの誹謗中傷も同じで、みんなでやると「自分じゃないかも」みたいな言い逃れができるからだと思います。

 実際に殴ったりしたら明らかに加害者になるから、みんなそこまではしない。なんとなくみんなで責任を分散して加害する人が多い気がします。そういう加害の話から心の傷を書くことにつながったのですが、心の傷は見える形では残らないんですよね。でも実際にしっかり血が出たら、もう逃げられない。「それは加害だよ」と示す物語を書きたかったので、心の傷を可視化させる描写を入れました。

――「慈雨」は、“傷をつけられた側”が傷を忘れている物語ですね。

千早:はい。つけられた側は忘れているけど、つけてしまった側は覚えている。私はそれは、優しい傷だと思うんです。きょうだい間でもよくある話で、私にも経験があります。妹が小さい頃、親に「ちょっと見ててね」と言われていたのに、目を離した隙に妹が転んでしまって。妹は全然覚えていないんですけどね。その経験を「慈雨」で書きました。

――本書で描かれているモチーフは「傷」ですが、『透明な夜の香り』『赤い月の香り』(集英社)など、「香り」をモチーフとした作品も数多く執筆されています。その中で、香りが記憶を呼び起こし、忘れられないがゆえに苦しむ人の描写が登場しますが、「記憶に刻まれるもの」として、「傷」と「香り」には似た性質があるのでしょうか。

千早:たしかに似たところはあると思いますが、でもやはり違う気がして。「香り」と聞いたら、多くの人は「いい香り」をイメージしますよね。「くさい香り」とは言わないじゃないですか。

 だから、受け取る言葉のイメージとして、「香り」はポジティブなものだと認識しています。でも、「傷」はどうしてもネガティブなイメージが強い。「痛みに直結するもの」「望まないもの」として捉えられるから、最初の入り口が違うように感じますね。

 ただ、「消えないもの」「よみがえるもの」という点では、似ているかもしれません。受けてしまったら、覚えてしまったら、忘れられない。「傷」も「香り」も、体が記憶するものですからね。

――表紙の写真を撮影した石内都さんとの対談記事で、石内さんは「私にとって写真を撮ることは非日常」とおっしゃっていました。千早さんにとって「物語ること」は、日常と非日常のどちらでしょうか。

千早:創作は6歳頃から日常的にやっていて、やらない日がないんですよね。いつも空想しているので、物語を考える行為は常に隣にあります。でも、それを文章にして、人に読ませる状態まで整えて提示するのは仕事に入るので、その工程は非日常ですね。

千早茜さん

「傷」は観察対象で、「傷痕」は生き延びた証

――本書の「あおたん」では、美容形成のメスを入れることで、「傷」が「救い」となる物語になっています。ネガティブなイメージを持つ「傷」の価値観をひっくり返す話は、千早さんの「傷が好き」という想いとつながっているのでしょうか。

千早:私は、「傷」と「傷痕」を少し分けて考えていて、今回の作品は「傷痕」の話なんです。「傷」はまだ経過段階にあって、血が流れていたり、膿んでいたりする。もしかしたら傷のせいで死ぬかもしれないし、治るかもしれない。予後が判断できない観察対象のような状態です。

「傷痕」は、体が受け入れて治して、傷に勝った証。要するに「生き延びた証」だと私は思っていて、傷痕に対しては非常にポジティブなイメージがあります。だから、人の傷痕を見たら、「この人はこの傷を飲み込んで生きてきたんだな」と思うし、「体、がんばったね」と思います。なので、「あおたん」や「まぶたの光」のように、傷痕をポジティブに捉える物語を入れたかったんです。

――子どもの頃から傷に興味があったとのことですが、どのような点に惹かれたのですか。

千早:幼い頃は、傷が怖かったんですよ。切ったら血が出るし、血がたくさん出たら死ぬという事実を知った時から、自分は血の袋のようなものだと思っていました。うっかり誰かにぶつかったら、袋が破れてジャバーっと血が出て死んでしまうと怯えていましたね。

 でも、止血方法や傷の処置などの家庭の医学を知っていくうちに、「怖がらなくていいんだ」と思えるようになりました。傷を好きになったのはそこからです。私はわりと神経質な子どもだったので、なにもかもが怖かったんですけど、知識を入れたら怖がる必要はないとわかり、恐怖心を克服できました。

――本書全体を通して、「祈りと再生」のイメージを感じました。望まぬ形で負った傷を携えて生きる方々にメッセージをお願いします。

千早:私は傷が好きだけど、「ケーキ食べた」「パフェおいしい」「猫かわいい」みたいなテンションで、傷痕をSNSには載せられません。傷はやっぱり、誰かの痛みによってできているものだから。それをあからさまに喜ぶというのは、やはりできないですね。

 でも、その人が死にたかったとしても、体はその人を生かそうとする。そういう強さみたいなものを人間はみんな持っていて、そういった意味で傷痕をポジティブに捉えてほしい。

「『グリフィスの傷』を読んで救われた」という感想をもらうと、すごく嬉しいです。でも、この作品を読んで、「私の痛みはこんなものじゃない」と感じて辛い気持ちになる人もいると思うんですよね。それを踏まえた上で、なるべく読んでくれた人の傷が深くならないことを祈ります。

取材・文=碧月はる、撮影=金澤正平

千早茜さん

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