話題の将棋ミステリー『盤上の向日葵』 ひふみんが柚月裕子さんと語った“プロ棋士のリアル”とは…?

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/11

『盤上の向日葵』(中央公論新社)

 藤井聡太四段の快進撃で注目を集める将棋界だが、本の世界でも将棋界を舞台にしたミステリー『盤上の向日葵』(中央公論新社)が話題になっている。その出版記念に、このほど著者の柚月裕子さんとお茶の間で大人気の“ひふみん”こと加藤一二三九段による「将棋トーク」が開催された。安定の“ひふみん節”に大いに沸いたイベントを紹介しよう。

■加藤九段の対局の9割は名局中の名局!?

柚月裕子氏(以下、柚月) 実はこの本を書く時に、将棋を描こうか麻雀を描こうか迷ったんですね。同じ勝負の世界でも違うのは「運に左右されるか、もしくは自分の実力で決まるか」というところ。将棋は考え抜いた一手で勝負が決まる実力の世界で、そういうフェアな部分に強くひかれました。

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加藤一二三氏(以下、ひふみん) たしかに将棋はほとんど運に左右されませんし、そこが大きな魅力です。私は小2の時に新聞の観戦記を読んで「将棋というのは“いい手”だけを指していけば、勝てる世界だ」と悟りまして、その瞬間に「これは私の世界だ」と、プロ棋士になれる予感がしましてね。これまで1324回勝っていますが、そのうちの9割は本当に名局中の名局で。

会場一同 おおー(どよめき)!

ひふみん たとえばバッハやモーツアルトの名曲は今でも人を感動させますが、私の指した名局というのは、今後50年、100年経っても色あせない感動を与えると自負しているんです。

柚月 たしかに名勝負といわれるものは、長く語り継がれるそうですね。

ひふみん 昭和57年の中原(誠)名人と私の対局が、名勝負のダントツで1位ですね。

会場一同 おお(笑)!

ひふみん といいますのはね、その対局は4月13日に始まって、終ったのが7月31日の夜の9時2分。大混戦でもこんなに長くかかりません。空前絶後ですね。少なくとも10本の指には入ります。

柚月 ほんとにもつれ込んでの勝負だったんですね。

ひふみん 中原名人は9期連続で名人になっていらして『絶対王者』と言われていました。中原さんは名人戦ではより一層、実力を発揮されるというのはよくわかっていまして。最後の最後、残り1分のところで、菓子を食べてた私は「あ、そうか!」と叫んだんです。伝説では「うひょ!」と言ったとありますけどね。私は「あ、そうか」だったんですよね。まあ、“どちらが正解か”はミステリーですけれど(笑)。

会場一同 (笑・拍手)!

■小学生相手でも負けは負け。負けることにも価値がある

柚月 今回、ひとつ不安なことがあって。それは「柚月って将棋指せるの?」と誤解されることなんです。私自身はコマの動かし方くらいしかわからないので、調べて書かせていただいたんです。もちろんプロ棋士の飯島栄治七段にきちっと監修していただいたので、内容的には問題はありません。

ひふみん コマの動かし方を知っていらっしゃるだけで、正直立派です。動かし方を知っていただいているならラクに教えられますし、ありがたいですよ。

柚月 実は書き始める前に一人で将棋会館に行って、ちょっと取材をしたんです。その時に2階の道場で小学校低学年の男の子と対局したんですが、惨敗で。「負けました」って頭を下げたのがものすごく悔しかったんです。キャリアも何も関係なく、負けは負けですから。明らかに私が彼より「劣っている」ということを示される悔しさに、将棋の厳しさを実感しました。きっとプロ棋士の方はどれだけ負けると悔しい思いをするのだろう、と…。

ひふみん そうですねえ…実は私はそんなに悔しくないんですよ。

柚月 え!! そうなんですか?

ひふみん 一生懸命指して負けたらね、勝つこともあれば、負けることもありますよ。悔しくて夜も眠れないってことはないですし、負けることも値打ちがあるでしょうね。

柚月 プロ棋士の方は負けも全部受け止めるわけですね。もちろん勝ちは求めるけれど、負けもアリという。

ひふみん 先ほどの「将棋には運はない」というのは95%本当ですが、大きな勝負の中では運の要素、神様のお導きみたいなものもあるんです。私は42歳で名人になったでしょ。あれを後で研究したら、95%負けてるものを勝ったんです。あの時は中原さんが簡単な勝ちを逃がしてまして、しかも対局中はそれを私も中原さんも気がついてなかったんです。中原さんが絶対に有利な状況にあったんだけれども、なぜか不思議なことに空白になるというかね。将棋には理屈では説明できないようなことがあるものなんですよ。私は第一代の木村(義雄)名人から佐藤(天彦)名人まで全員と闘っていますし、一緒に食事にも行っている「将棋界の証人」ですから、わかります(笑)。

■「天職」だという意識。他がないから、心も定まる

柚月 私が文章を書くきっかけ、抵抗なく文章を綴れることの根本にあるのが、亡くなった母親の一言なんです。親が転勤族でいろんなところに転校していたので、前の学校のお友達に手紙を書いたんですね。それを母に確認してもらうと、嘘かホントかわかりませんが必ずほめてくれたんです。「ゆうこはお手紙かくのが上手ね」って。大人がぽろっと言った一言が子どもの将来にすごく影響を与えることがあるんですよね。今回の小説では上条桂介という異端の棋士を唐沢という夫妻が支えますが、彼にも同じような経験があるんですね。「あの一言があったからこの道に入った」と気がつくことって案外多いのかもしれません。

ひふみん 私は未熟な人間だけども、深い深い共感を覚えてます。それってほんとにすばらしいですよね。幼少期に自分を愛してくれた人、そういった方との出会い、そういうのはやっぱり生きる力になりますよね。

柚月 自分を認めてくれる存在というのは、やっぱり人間が生きていく上で必要不可欠だと、歳を重ねるごとに思います。プロ棋士の方も「あの先輩の一言があったから苦難を乗り越えられた」とかお話しされることがありますよね。

ひふみん 私もあります。行き詰まったと思った時に、升田(幸三)名人がそれを察知してらしておっしゃったんです。「加藤君、キミは行き詰まっとる。でも、それがいいんだ」ってね。中途半端に活躍していたらまずいが、徹底的に活躍してないのがいい。今は潜んでいるけれど、いったん空に舞い上がったら大活躍すると信じていると、やおら色紙に「潜龍」と書いてくださいました。

柚月 「自分を認めてくれる存在」だったんですね。そういう存在は、苦しい時に前に進んでいくための原動力になることがありますよね。

ひふみん ありますよ。升田先生は私に大きな期待を抱いていらっしゃって、敬ってくださったんですよね。なかなかできませんよね。ありがたいですね。

柚月 私事ですが、今回の本の出版で10年という節目を迎えます。まだまだひよっこなんですが…。加藤先生が、長年プロを続けていらっしゃった原動力というか、プロで居続けるために必要なことって何だったと思われますか?

ひふみん やっぱり「天職意識」ですね。自分は将棋が天職だ、という。その意識によって、はっきりいって心が定まりますよ。

柚月 迷いがない、ここしかない、という。

ひふみん ここしかないし、このことを続けていけば成長できるという自信ですね。

柚月 人って迷ったときに、ラクなこととか、別の道を模索しがちですが、ここしかないって思うことは、弱みでもあるけど、強みでもあるんですね。それに自分が好きなことを仕事にできたのは幸せなことですから。

ひふみん それは本当に幸せなことだと思いますね。たとえばある人は、仕事は2割は楽しいが後の8割はつまらないと言うかもしれない。でも、私は棋士の仕事はほとんど95%楽しいですからね。

 途中、「勝負の最中は40年間うな重を頼みましたが、2回だけ他のもの頼んだら、その時だけこなかったんです。ミステリー作家的にはどう考えますか?」「引退の記者会見には何名記者が来たでしょう?」と珍問を繰り出すひふみん節に、柚月さんが苦笑いする一幕も。とはいえユーモアをまじえながら人生の妙を語る加藤九段はさすがの人間力。対談後、「加藤先生のお心の深さを実感しました。だからこそこれだけのファンがいるんですね。先生が生きてこられた時間の重みも感じて幸せでした」と柚月さんもうれしそうに振り返っていた。

取材・文=荒井理恵

*こちらのイベントを元にした対談記事は、『中央公論』12月号(11/10発売)でお読みいただけます。