2種類の英訳で翻訳のおもしろさを味わう――ニューヨークのイベントで初披露された西加奈子の小説世界

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2019/6/1

世界中から作家が集まり、アメリカ人作家と、文学や時代、社会について語り交流するPEN AMERICA World Voices Festival。(全米ペン協会主催)。5月初めにニューヨークで行われたこの祭典に、日本人作家として参加した西加奈子さん。このイベントでは、翻訳の奥深さ、おもしろさを伝えるために、一つの作品を2人の翻訳家が翻訳し朗読するという趣向が盛り込まれた。西さんの著書もその題材となった。自身のWEBサイトでは英語での発信もしている西さんだが、自著に対する二通りの翻訳を聞いて、どんな新しい刺激を得たのだろうか。

 インディから大手までたくさんの出版社が拠点にし、作家や文芸エージェントも数多く暮らす街だけあって、ニューヨークでは年間を通じ、文芸関連の大規模なイベントが数多く催されている。昨年は、村上春樹も登壇した、雑誌『THE NEW YORKER』誌主催の文芸フェスが開催、マンハッタンからイースト川を越えた対岸のブルックリンの文芸フェスも2006年から続き、国内外で知られるイベントとなった。

 そうした中にあって、全米ペン協会が運営するPEN AMERICA World Voices Festivalは15年前にスタートした。“文学を通じてアメリカと世界を結ぶ”というテーマを掲げた一週間におよぶ今年の祭典に、日本から人気作家の西加奈子さんが参加すると聞き、5月初旬に行われたトークイベントに足を運んだ。

 当日の会場となったのは、マンハッタンのイーストヴィレッジにあるニューヨリカン・ポエッツ・カフェ(Nuyorican Poets Cafe)だ。90年代初め、スポークンワードという詩の朗読がニューヨークダウンタウンのカルチャーシーンで一世を風靡したころ、その発信地として知られたイベントスペースである。


会場となったニューヨリカン・ポエッツ・カフェのエントランス

「トランスレーションスラム(Translation Slam =翻訳の朗読コンテスト)」と題された当日の催しは、その名の通り、一つの作品を2人の翻訳者が訳し読むという内容だ。2部構成の前半は、アイスランドの詩人の作品が読まれ、後半でいよいよ西さんの登場となった。

 司会進行役を務めるアリソン・マーキン・パウェルさんは、自身も文芸の翻訳家で、『センセイの鞄』(川上弘美/著)を始めとして、太宰治や中村文則の作品をこれまで手がけてきた。今回のお題となる西作品は、小説『ふくわらい』。英訳とその朗読は、円城塔作品の翻訳で知られるベテランのテリー・ギャラガーさん、手塚治虫の作品の英訳や『ジャパナメリカ』の和訳を手がけた永田医さんが担当した。

 西さんは彼ら3人とともにステージに上がると、客席を埋めた70人ほどの聴衆を前に、最初にマイクの前で語った。
「英語があまりうまくなくて、すみません。わたしがハルキ・ムラカミだったら、良かったのですが」と、挨拶と自己紹介のあとで英語によるジョークを飛ばすと、笑いが起こり、会場がリラックスした雰囲気に変わった。

 そして、「ここからは日本語でお話しさせてください」と言った西さんは、手にした紙に視線を落とし、自作の『ふくわらい』を朗読し始めた。日本国内でも朗読する機会はほとんどないそうだが、緊張する様子もなく、堂々と読み上げる彼女の声に、観客は聞き入っていた様子である。

 取り上げられた『ふくわらい』は、人生における数奇な体験とさまざまな人々との出会いを通じ、主人公の鳴木戸定(なるきどさだ)のアイデンティティが作られていく長編小説だ。今回英訳で朗読されたのは、その定が、幼い頃に「福笑い」という遊びに出会う冒頭の場面である。

 西さんの後に、テリーさん、永田さんの順でそれぞれの翻訳の朗読が行われ、各自のテキストがステージ後方の大きなスクリーンに映し出される。“コンテスト”と銘打たれているが、実際には朗読やテキストの内容を競い合うものではなく、「違い」を楽しむのがこのイベントの特徴だ。

 

 ふくわらい

 福笑いが、この世で一番面白い遊びだと思っていた。
 小さな頃、母が買ってきた雑誌についてきた付録が、鳴木戸定が触れた、最初の福笑いだった。
 当時、定は4歳になったばかりだった。定の誕生日は、1月1日だ。
 定は、「たのしいおしょうがつ」と書かれた表紙の、にっこりと笑った幼児の眩しいほどの歯の白さや、その幼児の頬に寄り添うようにしてこちらを覗いている、擬人化された門松や羽子板や獅子頭の、黒く光った目を、はっきりと、覚えている。
 母の多恵は、定に、5、6歳向けの雑誌を買い与えていた。定は字が読めなかったが、多恵が、「おしょうがつ」を「おしょうがつ」と読むのだと教えると、まるのまま、すぐに覚えてしまった。だが、「おしょうがつ」という言葉がばらけてしまうと、例えば「お」や「が」が単独であると、途端に、分からなくなるのだった。
 定にとって、「おしょうがつ」は、それそのもので、ひとつの絵だったのだ。

 テリーさんと永田さんに渡されたのは、前述した冒頭場面の1ページだけ。物語全体を把握できないのは、文章を別の言語に置きかえる作業ではいささか高いハードルだが、それが『ふくわらい』を選んだアリソンさんの狙いでもある。

「日本語の英訳は、コンピュータではできないでしょう。わたしは言語学の専門家ではないですが、英語に比べて、日本語の文章は情報量が少ない。だから、それをどう補足し、英語圏の読者にも原文に可能なかぎり近い雰囲気やニュアンスを伝えるかが、訳者の腕の見せどころなのです」

 そう語ったテリーさんだが、たとえばこの場面で出てくる「Oshogatu(お正月)」という言葉についても、永田さんとの英訳の違いを見せた。「Oshogatu」とは、新年を意味することを永田さんが英語の文章で示したが、テリーさんは、説明的な部分は最小限に留め、言葉の音節を強調する、西さんの原文に沿った翻訳で対応した。

 先に述べたように、どちらが良い悪いと競い合うのがイベントの主旨ではない。しかし西さんの小説のおもしろさとともに、訳者が違うことで、同じ原文でありながら、全く異なる翻訳が紹介されるのは興味深く、多様性をテーマに掲げるこの文芸フェスらしいと言えるだろう。

 朗読後のトークで最も会場の関心を引いたのが、文章での主語の部分だ。
「福笑いが、この世で一番面白い遊びだと思っていた。」

 この一文が物語の書き出しになるわけだが、「原文を読んで、she(彼女)以外に考えつかなかった」と言う永田さんに対し、テリーさんはhe(彼)と迷うことなく判断し英訳した。

 1ページしか原文を読まないルールのため、物語の展開の予備知識がない状況で、テリーさん、永田さんはそれぞれに主人公をイメージし、その結果、異なる性の主語に至ったわけだが、ここでも日本語と英語の特徴がはっきりと現れた。つまり、英語の文章では、I(わたし)やhe(彼)、she(彼女)やwe(我々)が日常的に使われるが、日本語はこうした代名詞が省略されることが多い。大半のアメリカの聴衆にとっては、日本語への知識が高まる機会になったのではないだろうか。

 朗読とトークの後のQ&Aの時間に、永田さんが「これまで、自分の書いた文章が英語に訳されて、一番驚かされたのはいつですか?」という質問を投げた時も、西さんはこの点をあげた。

「今日です! 男性か女性か、どちらを主人公にして、自分がこの小説を書いたのか、迷ってしまったくらいです」

 通訳から西さんの言葉が伝えられると、客席でまた笑い声が上がった。

「今回のお話を聞いて、日本語って、なんて曖昧なのと思いました。でも曖昧な日本語だからこそ、わたしはこの言葉でもっと書いていきたい」

 これからの執筆活動への意欲がみなぎった西さんの言葉に、会場から大きな拍手がステージに向けて送られた。それは西作品の英訳出版を期待する聴衆の応援のように聞こえ、これをもって大いに盛り上がったイベントはお開きとなった。

 

登壇者プロフィール

西 加奈子
にし・かなこ●作家。1977年、イランのテヘラン生まれ、エジプトのカイロ、大阪育ち。2004年に『あおい』でデビュー。2007年『通天閣』で織田作之助賞、13年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞、15年に『サラバ!』で直木賞を受賞。16年に、GRANTA Best of Young Japanese Novelistsに選ばれた。近著に『おまじない』。

アリソン・マーキン・パウェル
Allison Markin Powell●翻訳家、編集者、出版コンサルタント。ニューヨーク市在住。『センセイの鞄』(川上弘美/著)の翻訳で、2012年のブッカー・アジア文学賞、2014年のIndependent Foreign Fiction Prizeの候補作に。ほかに、太宰治、中村文則作品の翻訳も手がけている。

テリー・ギャラガー
Terry Gallagher●翻訳家。ジャーナリストを経て、フリーの翻訳家に。の『Self-Reference ENGINE』(円城塔/著)の翻訳で、2014年度のフィリップ・K・ディック賞特別賞を獲得した。

永田 医
ながた・いやす●翻訳家。東京生まれ。『ジャパナメリカ』(ローランド・ケルツ/著)のほか、2006 FIFAワールドカップ公式ウェブサイト、スポーツ・ノンフィクション、ヒップホップ歌詞、音楽批評などを翻訳。ニューヨーク在住。

取材・文・写真=新元良一