眠り続ける患者、猟奇殺人、少年Xの正体──予測不能の結末が待つ夢幻のミステリー『ムゲンのi』知念実希人インタビュー

小説・エッセイ

2019/10/11

 知念実希人が、またも最高傑作を更新した。上下巻、約700ページに及ぶ『ムゲンのi』は、いくつもの謎が連鎖し、驚きの結末に着地する大作ミステリー。そこに幻想美あふれるファンタジー世界を融合し、かつてない読み心地を味わわせてくれる。

著者 知念実希人さん

知念実希人
ちねん・みきと●1978年、沖縄県生まれ。日本内科学会認定医。島田荘司選ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、2012年『誰がための刃』でデビュー。「天久鷹央」シリーズなど著書多数。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』で、本屋大賞ベストテン入りを果たす。10月には文庫『誘拐遊戯』を刊行予定。

 

「複数のエピソードがひとつの話に収束していく小説は、『優しい死神の飼い方』をはじめ、これまでにもいくつか書いてきました。ひとつの謎が解決しても、別の謎が残り、最後の最後にすべてが解き明かされる。そのカタルシスが、このような構成の醍醐味です。執筆には時間がかかりますが、作品のクオリティは確実に上がるので、今回あらためてチャレンジしてみました。それに加えて、今回は現実とは違う夢幻の世界を描くのも新たな挑戦でした。実写映像ではなかなか表現できない世界も、文章でなら描き出せます。読者のイマジネーションを刺激し、この世界をリアルに体感していただけるよう、力を入れて書きました」

 物語は、若き女医・識名愛衣が勤務する病院に、奇病を発症した4人の患者が搬送されたところから始まる。ひたすら眠り続ける特発性嗜眠症候群、通称「イレス」は、ここ数年日本では発症例がない極めて稀な疾患。それが4人同時、しかも東京西部で局地的に発症するのは、異常事態としか言いようがない。愛衣は担当する3人の患者の家族や関係者から話を聞き、彼らが発症前にひどく落ち込み、人生に絶望していたという共通点を見出す。「なんとかして患者を救いたい」──そう願う愛衣は、かつて沖縄で霊能力者「ユタ」をしていた祖母から人の魂を救う「マブイグミ」について話を聞き、患者の夢の世界へと飛び込んでいく。

「ミステリーと非現実的な世界の描写を組み合わせるにはどうすればいいかと考え、この設定を思いつきました。ユタは昔から沖縄に実在しますが、マブイグミなどの設定は私が考えたオリジナルです」

 夢幻の世界で出会うのは、うさぎの耳を持つ不思議な猫。人語を解するそのうさぎ猫は、愛衣の魂の分身「ククル」であり、この世界をともに旅する相棒だ。愛衣はククルに導かれ、患者の記憶をたどりながら、彼らが心に傷を負った原因を突き止めていく。やがて鎖に縛られた彼らの魂を解き放てば、マブイグミは完了。魂が肉体に戻り、患者は昏睡状態から目醒めることとなる。このマブイグミの道程が、冒険ファンタジーのようで実にワクワクさせられる。数多の光球が煌めく世界、懐かしい夏祭りの世界、ピアノの鍵盤が道に連なる世界など、患者によって見える景色もさまざま。どの世界も色彩豊かに描き出され、愛衣の後ろを追いかけるような感覚でめくるめくひと時を楽しめる。

「それぞれの世界にテーマを設定し、リアルに近づけるのか、ファンタジーに寄せるか考えながら世界観を構築していきました。現実世界とは物理法則も何もかもが違うため、文章だけでその世界の空気感を伝えるのが難しかったですね。普段は無駄を削ぎ落としたシャープな文体を心掛けていますが、夢幻の世界を描く時は文体を変えることに。五感を刺激する言葉を多用し、地の文のボリュームを増やして丁寧に描写することで、読者にも夢幻の世界を一緒に歩いているような感覚を味わってもらえるように心がけました。とはいえ、書き込みすぎると読みにくくなるので、バランスを取るのも大変でした」

 患者の記憶をひもとくうち、明かされていくのは彼らの身に起きた悲劇。3人の患者は、どのような苦しみを抱え、なぜ昏睡状態に陥ったのか。そこには、内科医でもある知念さんならではの医療に絡んだ謎が潜んでいる。

「医療という専門知識を活かした、私にしか書けないミステリーを目指しました。小説になりそうな医療ネタは、日頃からたくさんストックしているんです。その中からどれを使うのが効果的か考え、3つの症例を描きました」

 父の影響でパイロットを目指していた21歳の片桐飛鳥、冤罪事件の専門弁護士を務める72歳の佃三郎、かつてピアニストの夢を抱いていた30代の加納環。3人の患者は性別も年齢もバラバラだが、みな大切なものを失った人たちだ。

「登場人物それぞれの喪失と再生を描きたかったんです。彼らはみな何かを失い、絶望しています。でも、ひと口に喪失と言ってもその形はいろいろ。どのような絶望を感じているかも、ひとりひとり違います。登場人物がどんな感性を持っているか、何を大切に思うのか。彼らの体温が感じられるよう、リアリティを意識して人物を作り込んでいきました。中でも印象深いのは、佃でしょうか。愛妻を亡くし、仕事に生きて、歳を重ねてもまだ生きがいを見つけて頑張っている。そんな深みのある人物を描けたのではないかと思います」

作家人生の集大成と言える現時点での最高傑作に

 夢幻の世界でマブイグミを進めるにつれ、佃が弁護する殺人事件の容疑者が加納の交際相手であるなど、患者同士の関係性も少しずつ見えてくる。さらに、患者の心の傷が、23年前に「少年X」が起こした通り魔殺人事件、最近都内西部で頻発する猟奇殺人事件につながっていることも明らかに。そこから愛衣の先輩医師が担当する4人目のイレス患者にまつわる謎、愛衣自身の過去へと物語は大きく広がっていく。

「愛衣の絶望と再生の話が語られ、23年前から続く事件との関連も明かされていきます。いろいろなジャンルを取り込み、うまく融合できたのではないかと思います」

 患者ひとりひとりが抱える過去、全体を貫く大きな謎、そして夢幻の世界を駆けめぐるファンタジックな冒険などさまざまな要素が絡み合い、実に贅沢な読みごたえ。これまで医療ミステリー、多層構造の連作ミステリー、ファンタジックなハートフルストーリー、ヒューマンドラマなど多岐にわたる小説を執筆してきた知念さんの集大成とも言える作品に仕上がっている。

「これまで培ってきたものをすべて注ぎ込んで執筆しました。今までの作品の数倍の労力をこの一冊に費やし、現時点でできる最高の作品を書いたつもりです。全身全霊を込めて最後までしっかり書き上げたので、達成感もひとしお。伏線を緻密に張りめぐらせ、ミステリーとしての驚きを大切にしていますが、ほかにはない世界観も楽しんでいただけたらうれしいです。ミステリーファンに限らず、多くの方に読んでいただきたいですね」

 読後に感じるのは、大きな愛。イレス患者たちに向けられた愛、愛衣を包み込む家族の愛、愛衣と相棒ククルを結ぶ愛──それらが深く胸に響き、ページを閉じたまましばし動けなくなってしまった。最後のページをめくる頃には、『ムゲンのi』というタイトルに込められた幾重もの意味にも気づくだろう。

「物語を貫くテーマとして、愛というキーワードは最初から考えていました。ただ面白いだけでなく、読んだ方に何かが残る作品にしたいと思ったので」

 実は本作の執筆中、愛衣のククルであるうさぎ猫のモデルになった知念さんの愛猫ハリー君が天に召された。知念さんは机にハリー君の写真を飾り、魂を削るような思いで作品を磨き上げたという。青依青さんが下巻のカバーイラストに描いたククルも、ハリー君をモデルにしているそう。この作品は、知念さんとハリー君が心を通わせ、二人で紡ぎあげた魂の共作。ハリー君の面影をたたえたククルは、これからも作品の中で永遠に生き続ける。これは愛衣とククルの、そして知念さんとハリー君の、まぎれもない愛の物語だ。

取材・文=野本由起 写真=下林彩子