「誰かの靴を履いてみること」元・底辺中学校に通う息子と考える、格差や差別と向き合う日常――ブレイディみかこさんインタビュー

文芸・カルチャー

2019/10/5

 イギリス・ブライトンに移住して23年の著者・ブレイディみかこさん。現在は保育士・ライターをしながらアイルランド人の夫と息子の3人暮らしだ。

 新刊である『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)は、息子の中学校生活を通してイギリス社会に現存する差別や階級社会について描かれたノンフィクション。穏やかで友人が多く優等生と言われる息子。そんな彼が品行方正なカトリック系の小学校から、近所の元・底辺中学校に進学すると、さまざまな差別やいじめ問題に直面する。数々のトラブルや困難に遭遇しながらどのように著者と一緒に考え乗り越えていったのか。お話を聞いた。

相手の立場や気持ちを想像する能力・エンパシーとは

――「誰かの靴を履いてみること」という息子さんの言葉が印象的です。多様性と言われる社会の中で、相手の気持ちや背景を想像してみようという意味でしょうか。

ブレイディみかこさん(以下、ブレイディ):イギリスは日本に比べて“階級”が明確で、“上流階級”と言われる方々から“底辺”と言われる方々まで貧富の差が大きいです。さらに、居住している人の人種や民族や宗教も様々で、差別や格差社会はおさまるどころか広がっています。そんな社会だからこそ、相手の立場や気持ちを想像することが大切なんですよね。

――イギリスには「シンパシー」と「エンパシー」という言葉があるとか。

ブレイディ:はい。「シンパシー」は“いいね!”ボタンのように、カワイイ、可哀そう、共鳴してぐっとくる、など、自分で努力しなくても出てくる“感情”のことを言います。

 それに対して「エンパシー」は人を想像する“能力”であり“スキル”なんですよ。いいね!ボタンは押せなくても、自分と違う理念や信念を持つ人に対して、どうしてこう思ったんだろうと想像する能力のことを言います。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業といえるかもしれないですね。

 イギリスも日本でも、多様性社会と言いながら自分が属する世界や、自分が理解している世界が、少しでも揺らいだり、変わったりするのが嫌いな人がいるのも確かです。場合によっては外から入ってくる人を脅威に感じて攻撃的になる人もいるでしょう。それでも少しずつでもエンパシーを働かせながら対話が生まれていけばと思います。

――さらに「人間は人をいじめるのが好きなのではなく、人を罰するのが好きなんだ」という息子さんの言葉にハッとしました。

ブレイディ:自分なりの正義を言い訳にしながら人をバッシングする人って多いですよね。Twitterなどでもよくみかけます。人を罰するのってきっと気持ちいいんだと思います。罰することの快楽ってきっとあるんですよ。

――罰することの快楽…。ダニエルくん(=息子の友人。レイシスト発言をするためいじめの標的になった)へのいじめも、正義の押しつけやエンパシー不足な気がします。そもそもエンパシーは育つものなんでしょうか。

ブレイディ:育つと思います。ただ、自分がその事例に近い体験をしたり、似たような人を知っているなど、想像する土台がないと難しいですよね。本を読んだりネットを見ているだけでは厳しいかと思います。“ネットを捨てよ街に出よ”ではないですが、自分が常識とする狭い範疇にとらわれずに、これまでは出会うはずがなかった人と触れ合ってみることが大切なのではないでしょうか。

 たとえば、矢部太郎さんの『大家さんと僕』(新潮社)という、シリーズ累計100万部を超えるヒット作があります。これは、“僕”の普段の生活ではなかなか巡り合えなかったような大家さんとの出会いと交流を描いたものですが、実は人と人との触れ合いに飢えている多くの現代人に感動を与えたのではないでしょうか。さらに“僕”は大家さんとたくさんの時間を共有したことによって、一人暮らしのお年寄りの生活や気持ちが想像できるようになった、いわゆるエンパシーの能力を高めたんだと思います。外に出て実際に人に会い、触れ合うこと、知ることで、エンパシーという知性の土台は育っていくと思うんです。

多様性はどんな軸でも常に素晴らしい! とは限らない

――ブレイディさん自身、イギリスに移住されて23年とのこと。日本に比べ移民や人種の数が多い国で過ごされて、多様性についてどう考えますか?

ブレイディ:何でもかんでも「多様性は素晴らしい!」「みんな違ってみんないい」というのは乱暴だと思います。上と下の階級の軸においては、これはあてはまらないから。みんな違ってみんないいなら、貧しいものは貧しくていい、子どもが親の経済事情で勉強できなかったとしても、お腹を空かしていてもほっといていいじゃん、人はいろいろだからという話になる。まさにそういう社会になってきていると思いますけどね。でも、縦の軸における多様性は格差と呼ばれるのであって、「いろんな人がいていい」ではなく、縮めていった方がいい。

 多様性という言葉は一見自由なようですが、人種や生き方、考え方が本当に多様になると、そのすべてをどううまく受けとめていいのかわからずに、逆に不寛容で不自由な空気になってしまう。相手をよく知らないのにこの人はこうだ! と思い込みや決めつけで人をジャッジしてしまったり…。しかし、実際にジャッジした相手に歩み寄ってみると意外と勘違いしていたことが本当に多く、いかに自分が無知であるか気づくと思います。そうやって少しずつ心の縛りを外して生きていくことは、多様性以前にひとりの人間として必要なことだと思うし、そうでなくては多様な社会で健やかに生きるのは無理ですよね。

――息子さん自身も日本でもイギリスでも外国人扱いされて苦労されていると思います。どのように受容しているのでしょうか。

ブレイディ:乗り越えてはいないですね。ただ、子どもなので嫌な思いをしても他に興味が引かれるものがあれば、気持ちが切り替わる場面は多いかもしれません。しかし将来的にはまた同じような問題に突き当たって戻ってくるんだろうなと思うし、人間の成長は螺旋階段のようなものだと思うので。

 以前、息子が日本に滞在したときは、周りの日本人にジロジロ見られたり、酔っぱらいの男性に日本語が話せないことを絡まれたり…。言葉が分からなくても子どもながらに嫌だなと思った経験は、彼の中で沈殿していると思います。ただ、一つ一つのことがその場では解決しなくても、彼が嫌な思いをした分、何らかの形で他者の状況を考えたり、人に対してエンパシーを働かせる子になってくれたらいいなとは思っています。この先もし同じような差別をされている子を見たら、その子を助ける側になれるかもしれないし。

――アイデンティティとの向き合い方に迷ってしまうことはあるのでしょうか。

ブレイディ:人のアイデンティティって一つじゃないですよね。私なら日本人であり、現在はイギリスに23年間住んでいる移民であり、女性であり、労働者階級の人間であり、保育士であって…でも、これらのアイデンティティは私の中で分断しているわけではないんです。

 これはアミン・マアルーフというレバノン出身のフランスの作家が『アイデンティティは人を殺す』という本で書いていることですが、私たちは、ピーンと張った「私」という一枚の皮膚を身にまとって生きていて、アイデンティティは、その皮膚の上に描かれた模様に過ぎず、一人一人違う属性の模様がたくさんついているんだと。その模様が違うからこそ私たちはユニークだしほかの人とは違うんだというんです。

 私は東洋人への帰属意識も一つの模様として刻まれているし、在英の人間だという模様も、23年間ヨーロッパに住んでいる移民だっていう模様も、女性という模様も、労働者という模様も刻まれている。私は私のいろいろな模様をつけて生きています。そのときの状況によって、たくさんある模様の一つがふっと呼び覚まされたりするけれど、ずっと一つのアイデンティティだけでいるわけではないですし。エンパシーの話とも通じますが、たとえばあの人はお金持ちでエリートで私は貧しい、みたいな意識があったとしても、同じ女性というアイデンティティで繋がれることもまたあると思うんですよね。

――日本人はなぜか帰属意識は一つだけだと考えがちな気がします。

ブレイディ:帰属意識が一つに凝り固まってしまうと、自分たちを守るために最悪の場合には人を殺してしまったり、戦争に発展してしまうこともある、というのがさきほど話したアミン・マアルーフの本の主張です。日本人は、日本の中ばかりで生きていて帰属意識も一つだと考えがちかもしれません。でも、同じ日本の中に住んでいる人でも、たとえば正規雇用者の模様、非正規雇用者の模様とか、子どもがいる人の模様、子どもがいない人の模様とか、いろいろあるわけです。どこかが違ってもどこかは同じだし、どこかが同じでも別のところでは必ず違う。そう受け取れるようになれば、社会のギスギスした感じも薄まるかもしれないと思います。

――イギリスにはシティズンシップ教育というものがあって、たとえばFGMというアフリカの女性器切除の話を学校で先生が教えたり、政治や公民などの授業がより身近に伝わるのだとか。子どもたちが公園や家庭で政治やデモなどの話もしているんですよね。

ブレイディ:普段から子どもたちは普通に議論していますよ。たとえばLGBTがテーマのときは、学校の帰り道で自分たちの性的指向について話し合ったり。たぶんシティズンシップ教育で性教育とかしたら、普通に地理を勉強したりするより興味がわくかもしれない。テーマがおもしろいと友達との会話にもあがりますし。

 日本の学校も社会の授業で三権分立とか議会とか、諸々学ぶと思うんです。でも、イギリスだと話を一方的に聞いただけでは終わらない。いま世間で話題になっているようなごく身近な問題をとりあげて、子どもたちも家族も一緒に考えるんです。

 エンパシーもそうですね。エンパシーを学校で習ったときも先生がEU離脱やテロの問題も取り入れてお話しされました。試験では、エンパシーとは何か? 自分の言葉で説明せよ、という問題が出ます。学校で習うことと日常生活や社会の出来事が切り離されていないんです。今の時代に起きていることや、彼らの周りで起きていること、社会や公民の時間とまったく切り離されていないので、たぶん本人たちも興味がもてるし社会への関心が高くなるのでしょうね。

――FGM(女性器切除)の話題については、アフリカ女性の前で休みの日の過ごし方を聞いたら怒られてしまったとか。

ブレイディ:そうですね。「休日はどうやって過ごされますか?」と気軽な気持ちで聞いたことが、アフリカ出身の彼女には誤解を受けて取られてしまいました(学校の授業でFGMが取り上げられたことで、彼女の娘はクラスメイトから夏休み中にアフリカに帰ってFGMを受けるのではないか、とゴシップと紙一重の心配をされていた)。しかし、相手を嫌な気持ちにさせようと思って言ったわけではないし、学校での噂のことをすっかり忘れていて、ふつうに夏休み前にママ友どうしであいさつ代わりに交わす言葉を言っただけだから、私も不正義をしているとは思ってないです。ここで考えこんで自分を責めると多様化の進んだ社会は生きづらいと考えるようになって、人種の多様性そのものやポリコレを不快に思うようになる。だから、地雷を踏んだとしても、次は注意しようと心にとどめて、そうやって経験しながら学んでいけばいいんだ、と考えるぐらいのおおらかさも必要だと思っています。

――最後に読者にメッセージをお願いします。

ブレイディ:日本にとっても移民や多様性、格差社会など、そんなに遠くない話だろうと思って書きました。既に外国の方がスーパーやコンビニで働いている光景は珍しくないですし、国や政治がどうのという大きな話ではなく日常の生活でも相通じるエピソードがあるのではないかと思います。

 これからさらに外国の方が日本に入ってきたときに、多様性って何だろう、アイデンティティって何だろうっていまよりずっと切実に考える時代になると思うんです。イギリスは以前から移民を受け入れきて、良くも悪しくも10年20年日本より先をいっていると思っていましたが、その間隔がどんどん縮まっている気がします。たぶん、日本も近い将来こういうことに直面するんじゃないかなぁと。もうしているのかもしれない。私たちイギリスでも先に地雷を踏んだりして悩んで経験しながら道を探っている最中ですが、日本でも多様性やエンパシーなど、もっと考えるべき時期に来ていると思うし、大人も子どもも議論してほしいと思っています。

取材・文・写真=松永怜

プロフィール
ブレイディみかこ
1965年、福岡市生まれ。保育士・ライター・コラムニスト。音楽好きが高じて渡英を繰り返し、1996年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち英国で保育士資格を取得。「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)をはじめ著書多数。