「“自分に起こったら一番嫌なこと”を書いた」――小説3作目『奈落』古市憲寿氏インタビュー

文芸・カルチャー

2020/3/7

(C)Maciej Kucia(AVGVST)

『平成くん、さようなら』(文藝春秋)、『百の夜は跳ねて』(新潮社)に続く、古市憲寿氏の小説第3作『奈落』(新潮社)は、壮絶で過酷な境遇から逃れられない女性を主人公にした作品だ。

古市憲寿氏
『奈落』(古市憲寿/新潮社)

 彼女、藤本香織は18歳でデビューを果たして一世を風靡したミュージシャンだったが、ツアーライブ中にステージから転落。重度の障害を負い、全身不随となってしまう。身体の感覚と意識ははっきりしているものの、指先ひとつ動かすことのできない彼女は、医者から意識のない“植物状態”と診断されて――。本作はそんな香織の約17年にわたる圧倒的な絶望と孤独、地獄のような苦しみと呪詛に満ちた日々を描く。この衝撃と戦慄を禁じ得ない物語に古市氏が込めた思いとは? 小説家として新たな境地をひらいた古市氏に訊く。

――『奈落』は主人公のあまりに絶望的な状況に読んでいて息苦しくなりつつも、読み進めずにはいられない魅力のある作品でした。Twitterでは本作について「ずっと前から書きたかったテーマ」とツイートされていましたね。

古市憲寿氏(以下、古市):『奈落』で書いたのは“自分に起こったら一番嫌なこと”なんです。僕は“自分で物事を決める”ことが何より大事だと思っていて、幸福に生きる条件も自己決定にあると思っているんですね。だから、自分の生き方や働き方、そして死に方まで、できれば全部自分で決めたいと思っているのですが、逆にそういった自己決定が一切奪われた状況で人間はどうなってしまうんだろう、と。それを考える物語を書いてみたいという気持ちがずっとあったんです。作品のもとになった断片のようなものは、かなり前から少しずつ書いていました。

――意識はあるのに身体が完全に麻痺して動かせない“閉じ込め症候群”という非常に苦しい状態に置かれた主人公ですが、声を上げることはできなくても、その心のなかは忌み嫌う家族の言動やセンスに対する怒りや嘲笑の声に満ちています。それがまた強烈で強い印象を残すキャラクターになっていますね。

古市:今回の主人公には何も我慢させずに言いたいことを言わせてみました。これまでの作品だとちょっと遠慮があったというか、「このキャラクターはこんなこと言わないだろう」と感じて踏み込めない部分もあったんです。でも『奈落』の香織は、自分自身が境遇としてものすごく不幸で悲惨な状態にあるわけで、そうなったらどれだけ毒を吐いてもおかしくはないし、もともと彼女はちゃんと物事を明晰に考えて、感じたこと、言いたいことをすべて言えるような人。だから、僕としてもブレーキを踏まずに書けたし、それが自然なキャラクターにしたつもりです。

――「夜の銀座みたいな顔を目指すにもかかわらず、首から下は埼玉のイオンモール」といった、とても意地悪だけど思わず笑ってしまうような言葉がポンポン飛び出すところもおもしろかったです。

古市:香織の属性は僕とまったく違いますが、考えていることとか、僕と重なっているところも当然あります。不摂生でぶくぶく太っている人への冷たい目線とか(笑)。今回の物語を作っていくうえで、香織のキャラクターの強烈さはすごく重要でした。

――全身不随で身体を動かすどころか、声すら発せない人物が主人公ですが、物語に停滞を感じることはなく、むしろ一気に読まされます。それはやはり主人公である香織のキャラクターによるところが大きいですよね。

古市:彼女は身体を動かすことができないけれど、「身体を回復させて、この状態から抜け出したい」という激しく強い願望を抱いているので、逆に物語の主人公としては動かしやすかったんです。これはフィクションでもノンフィクションでも変わらないと思うのですが、物語の語り手が「何がしたいのかわからない」と、読者は置いてけぼりになってしまって、どうしても停滞してしまう。そういう点でいうと、この主人公の望みはすごくシンプルで明確で、強い。「読みやすい」とか「一気に読めた」という感想を多くいただいたのですが、その強い思いが描けたことが、事後的ではありますけど、読みやすさにもつながったのかなと思います。

――意識があるのに誰にも気づいてもらえない香織が味わう恐怖と絶望、怒りは真に迫るものがありました。さらにエピソードの間に挟み込まれる家族や友人視点からの短いモノローグによって、寝たきりの彼女を介護している家族とのすれ違いや、香織に対する心情の変容が浮き彫りになり、それもまた読んでいて恐ろしく、やりきれない気持ちになります。

古市:草稿の段階では香織の完全な一人称でしたが、他者の視点を入れたほうがより小説が重層的になるのかなと考えて、香織の周囲にいる人物のモノローグを最後の最後に書き加えました。やっぱり、17年間という長い期間、ずっと寝たきりの人間を介護していたら、扱いはどうしてもぞんざいになっていくと思うんですね。たとえ、その人のことをどれだけ愛していた家族であっても。それが香織のように人気のあったアーティストであれば、その権利やステイタスを利用しようという気持ちも生まれてくるだろうし。それはもうしょうがないことだと思います。だから、香織にとって不本意だったり、裏切られたと感じたりするようなことが起こるのは、家族が悪人だったというより、あの状況がそうさせてしまっているところが大きい。そして、家族が変容していくと同時に香織自身も変容していくのですが、彼女にはそれが見えていない。その両者の変容もまた描きたいところでした。

――どれだけ嫌な思いをしても逃れることができず、抵抗すらできない家族関係は、もはやホラー的な恐ろしさすらありました。

古市:実際、「怖い」という感想はすごく多かったです。確かにこれはある種のホラーですよね。ただ、家族が良かれと思ってしたことが裏目に出るとか、毒親との関係のように思い違いの愛に苦しめられるとか、ここに描いた問題は、とても極端なかたちにはなっているけれど、現代の日本で現実に起こっている問題でもあります。「家族だからわかり合える」とか「家族だから愛情があるのは当然」みたいな通念が生んでいる“辛さ”ってすごく多いのではないでしょうか。

 自己決定ということでいえば、家族は基本的に自分で選べません。実際には自分で選べる友達のほうがよっぽどわかり合えるのに、家族は誰よりもわかり合えるという幻想があって、そのつながりも簡単には断ち切れないようになっている。介護に関していえば、今の日本は仕組みはその断ち切れないつながりを利用しているところがあって、それゆえに起こる悲劇も実際に数多くあるわけです。それはもう家族というものの限界なんだろう、と。『奈落』ではそういう家族の側面のひとつを描けた気がしています。だから、年末年始に実家に帰ったりして「家族ってなんでこんなにめんどくさいんだ」とか感じた人にはぜひ『奈落』を読んでみてほしいですね。きっと共感するところもあるだろうし、「このうちよりはマシだな」と励まされるところもあると思うので(笑)。

――アーティストとして活躍していた頃の香織とプラトニックながら特別な関係を築いていた“海君”とのやりとりも切なかったです。同じアーティストとして価値観を共有できていた海君が歳月とともに変わっていくなかで寝たきりのまま取り残される辛さ。何より“キスシーン”があまりに衝撃的でした。

古市:海君のエピソードも含めて、書く前から物語全体の細かい展開を考えていたわけじゃないんです。だいたいこんなことが起こるのかな、ぐらいで。実際に書いているときは“起こってほしくない最悪のこと”を積み重ねていくような感覚でした。そのなかで海君とのキスシーンも出てきましたし、家族との関係の変化や、震災の場面もそうですね。だから、起こってほしくないことが起こってしまう恐怖が、物語を進めていったようなところがあります。

――確かに香織の立場を自分に置き換えてみると、絶対に耐えられないだろうなと思わされる過酷な場面はいくつも出てきました。物語の結末も多くの読者にとって衝撃的なものではないかと思います。

古市:あの結末も書く前はとくに考えていませんでした。自分でも「どうなるんだろう」という感じで、第1稿を書き終えるところでようやく「これだな」と決まった。物語の終わらせ方として、自分としては一番違和感がなく、自然なものになったと思っています。実際に読んでいただいた人の感想のなかには、結末に“救い”を感じたという人も結構いたんですよ。

――『平成くん、さようなら』の平成くんと愛ちゃん、『百の夜は跳ねて』の翔太と老婆の間には、心の交流が感じられるような印象的な場面がありましたが、今作の香織は海君との関係も遠くなり、家族とはまったく理解し合えない。ひたすらに孤独であるように感じました。

古市:これまで書いてきた作品もそうなんですが、“断絶”はひとつのテーマなんです。たとえば『百の夜は跳ねて』の翔太と老婆は多くの言葉を交わしてはいますが、どれも一方通行なんですよね。そこにふたりの交流が描かれているようには見えても、結果的にそれが本当に交流と呼べるものであるかはわからないんです。今回はそういう断絶を突き詰めてみようという意識はありました。

――意識はあるのに他者とまったく意思の疎通ができない状況は、決定的な断絶ともいえるかもしれません。生きていますが、死よりもむしろ断絶が明確に見えます。この“死”というものも、古市さんの作品では大きなモチーフのひとつになっているように感じるのですが。

古市:香織はもうほとんど社会的には死んでいるといえる状態ですよね。やっぱり個人的に“死”には関心があるんです。人類が乗り越えることができていない、一番の断絶じゃないですか。この世界には貧富の差や性差や、国や地域ごとの差とか、さまざまな格差がありますが、生と死ほど大きな格差はないですよね。『平成くん、さようなら』はまさにそこの興味から出てきた小説だったし、『奈落』も生と死を分けるものについて考えた小説といえます。僕にとって死というテーマは、評論やエッセイだと微妙に扱いづらいもので、小説でしか書けないところがある。そういった自由にものを書ける余地があるから、僕は小説を書いているといえるかもしれません。

――古市さんはさまざまなメディアで言論活動をされていますが、そのなかでも小説という表現形式に思い入れのようなものはあるのでしょうか。

古市:小説も読んできましたが、自分の根っこにあるのは、藤子・F・不二雄先生のSF短編集なんです。たとえば、「もし、性欲と食欲が入れ替わったら世界はどうなるか」という発想の「気楽に殺ろうよ」という作品があるのですが、そんな“ありえたかもしれない世界”を想像させてくれるところが昔からすごく好きで。自分たちがいる今ここが現実のすべてだと思い込んでいるけれど、ちょっとパラメーターが違ったら、今とまったく異なる自分、異なる世界があったかもしれない。そんなことを考えさせるものを自分でも書いてみたいという気持ちはずっとあって、それを自由に描けて、わかりやすく伝えるには小説というかたちが一番合うのかな、と。

――ご自身がいわゆる“純文学”を書いているという意識はありますか。

古市:それはとくに意識していません。これから自分が書いてみたいと思う小説の内容によっては、ライトノベル的なものを書くこともあるかもしれないですし、感覚としてはたまたま書いてきたテーマが“純文学”に分類されるものだったのかな、ぐらいの気持ちです。『文學界』や『新潮』に知っている編集者がいたということも大きいですが。あまりジャンルに縛られたくないというか、僕のなかではそんなに変わらない部分が大きいんですよね。それこそ評論やエッセイであっても、根本的なところではさっき話したように“ありえたかもしれない世界”やそこに向けた提案を自分なりに発信しているつもりです。

――さまざまなメディアで言論活動をされていると、それだけ批判にさらされる機会も多くなると思います。そのなかには不本意に感じるものもあったのではないかと想像しますが、小説を書くスタンスに変化などはありましたか。

古市:もちろん、いろんな批判があることは承知していますが、それは読んでくれる人がいるということですから。それなりに時間をかけて僕の書いたものを読んでくれた人の感想なので、芥川賞の選評からAmazonのレビューまで、できる限り目を通すようにしていますし、批判的なものもあまり気にしないようにして、フラットなものとしてとらえています。ただ、10代ぐらいの若い人がInstagramに僕の小説を「生まれて初めて読んだ小説」と投稿していたのを見たときはすごくうれしかったですね。“初めて読んだ小説”って、ちょっと特別なものがあるじゃないですか。そんな誰かの最初の1冊になったことをとても光栄に感じました。

 そうやって読んでくれている人がいることはすごく励みになりますし、小説で書いてみたいテーマもまだいくつもあります。そして、世の中には『奈落』の香織のように言葉さえも奪われている状況の人もいて、テレビに出たり、本を書いたりする僕のような立場の人間は、そういった言葉が奪われている人の思いをどれだけ発せられるかということも同時に問われているのではないか、と。ですから、今のところはこれからも変わらずに小説で書くべきテーマは小説で書いていこうと思います。もちろん、まったく売れなかったら話は別ですけど(笑)。それは需要がないということで、需要がないものは世に出す意味はないと僕は思っているので。でも、そうですね。需要があるうちは、小説を書き続けていくつもりです。

取材・文=橋富政彦 撮影=奥西淳二