少女の自立を主軸に描かれる『海辺の金魚』監督・小川紗良インタビュー! 映画と小説で異なる見どころとは?

文芸・カルチャー

更新日:2021/6/9

過剰に美化したり憐れんだりするのではなく、子どもの視点に寄り添う作品にしたかった

海辺の金魚

――「海辺の金魚」は、自立を前に母親と向き合う話でもあります。花の母親はかつてある事件の容疑者として逮捕されていて、「いい子でね」という呪いのような言葉を残して消えてしまった。面会の打診を受けて揺れる花の前には、暴力をふるわれても一心に母を想い続ける晴海がいる。どちらの母も、ほとんど登場しない・語らないのが印象的でした。

小川 母親を描きすぎないようにしよう、というのは映画を撮っているときから決めていました。母親が今どうしているのか、何を思っていたのか、事件の真相がどこにあったのかは、花自身にもわからないことだろうから、すべてが曖昧で白黒がついていない状態の苦しさをそのまま描こう、と。

――「みっちゃんはね、」では、ミツキの誕生日プレゼントに千円札をにぎりしめ、無理やり会いにきた母親が描かれていました。でもその日は、ミツキの誕生日ではなかった。親が子を想う気持ちもちゃんと描きながら、だからといって子どもが受けた傷が消えるわけじゃないのだということも、作品を通じて描かれています。

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小川 それもやっぱり、子どもの視点に寄り添いたかったから……。お母さんたちにも、きっと事情や辛い思いがあったんだろうなということは、第三者としては想像がつくんです。でもだからといって子どもは何も悪くないし、子どもを傷つけて良い理由にはならないという想いが私のなかでは一貫していて。「そうは言っても親なんだから」とか「産んでもらったんだから」みたいなバイアスに抗う作品があってもいいだろうと思ったんです。そういう価値観の中で苦しみ続けている人たちがきっといるから。だから、中にはこの作品を受けいれられない人もいるだろうとは思うんですけど、そちら側にはいけずにどうしてもこぼれ落ちてしまった人たちのことを、考えたかった。

――〈いつか読んだ本に、家族とは「自分から決して逃げない人」のことだと書いてあった。一度逃げられてしまった私たちは、この先その「家族」というものを、一体どう信じれば良いというのだろう〉という花の想いは胸に迫りました。

小川 決して逃げず、守ってくれる存在として家族がちゃんと機能しているなら、それはそれですばらしいことだと思うんです。私自身、役者として家族の絆を描いた作品にも出演していますし、そのあたたかさを伝える作品も必要だと思っています。でも、世の作品がそういうものばかりだと、「家族」にあてはまらなくて苦しんでいる人たちを置いていってしまうことになる。許さなくてもいい、時には逃げてもいいし捨ててもいいんだ、と肯定することで誰かが救われる場所があってもいいし、この作品はそういうものであってほしいと願いをこめています。

――こぼれ落ちてしまう人たちに寄り添いたい、という想いが、映画を撮りはじめた動機でもあるんですか?

小川 そうですね……。出発点はいつも個人的な小さな感情、それこそ今回でいえば「女の子が歩みだしていく姿を描きたい」でしたけど、社会に対して開けた作品でありたい、とはいつも思っています。主張を押しつけるつもりはないので、表現のバランスが難しいんですけどね。花のお母さんがおかした罪を、実際に起きた事件を連想させるものにしたのは意図的ですが、それは事件のどうこうを言いたかったのではなく、どんな事件の裏側にも花のような残された子どもたちがいて、彼女たちは彼女たちの人生を懸命に歩んでいるんだっていうことを描きたかったから。その描き方も……先ほど言ったように、過剰に美化したり憐れんだりせず、丁寧にひもといていくのはとても難しい。これでいいんだろうかと毎回悩みながらの繰り返しです。

是枝監督から受けたアドバイスとは?

海辺の金魚

――小川さんにとって、“寄り添う”作品とはどういうことなのでしょう?

小川 感情を操作しようとしない、ということでしょうか。受け取り手に干渉しすぎず、感情を押し付けない。受け取り方や感情を委ねることは、読者や観客に寄り添うことにもなると思います。自分が映画を観るときも、過剰に音楽を流したり感動を煽るような演出をしたり、すべてを説明するようなセリフが出てきたりすると、寄り添ってないなと感じてしまうんです。演じる人のこともお客さんのことも信用していないんじゃないのかな、と。

――何か指針にした作品はありますか?

小川 地方の児童養護施設に8年にわたって密着した『隣る人』(監督:刀川和也)というドキュメンタリー作品があって、小さな日常に淡々と寄り添う姿が本当にすばらしくて。音楽やテロップがなくても、8年という日々の重みがひしひしと伝わってくるんです。何度も観ましたし、施設の方が書いた同名の書籍も読みました。たぶん、影響を受けていると思います。あとは台湾映画が好きなんですが、『冬冬(トントン)の夏休み』(監督:ホウ・シャオシェン)も淡々としていながら染み入ってくる作品で、とても好きです。

――脚本協力のクレジットに是枝裕和監督の名前がありましたが、どんなお話をされたのでしょう?

小川 大学の授業を受けていた延長で、今回も脚本を一度読んでいただき、構成やセリフにアドバイスをいただきました。あとは、子どもを撮る上での心構えを改めてうかがったのも、勉強になりました。『誰も知らない』を撮影したとき、監督は子どもたちの服を子ども服売り場に一緒に買いに行ったらしいんですよ。撮影に入る前も、入ってからの合間の時間も、子どもたちとどう過ごすかを大事にされていたと聞いて、私も晴海役の(花田)琉愛ちゃんと一緒に、ロケ地だった鹿児島県・阿久根のスーパーやしまむらに行きました。

――その時間をつくったことで、作品に影響はありましたか?

小川 実際に子どもたちと触れあった時間のおかげで、小説を書くときも口調やしぐさが自然と浮かんだ、というのはあると思います。「子どもってすごい、おもしろい、もっと子どもたちのことを知りたい!」という気持ちが私のなかに芽生えて、保育士資格をとったりもしたんですよ。「星に願いを」で花が「小さな者」へ気持ちが向いていくのもたぶん、私自身の経験が生んだものだと思います。

――花とご自身が重なりあう部分も、けっこうあったんですね。

小川 小説を書いているときは、映画を撮るとき以上に花に“なって”いたと思います。映画の撮影が終わってから、1年くらいかけて書いていたんですけど、『花』という大河ドラマの主人公を1年演じていたような気分(笑)。ほとんど流れを決めずに書いたから、じっくり時間をかけて花が育ってくれましたし、子どもたちについても「きっと晴海はこう言うだろうな」「みっちゃんはこういうことしそう」と広がってくれて、映画とはまた違う作品になりました。

――今後も小説を書いていきたい思いはありますか?

小川 はい。映画ではあまり言葉に頼らず、語りすぎないよう意識しているんですけど、その反動か、小説は思い切り言葉に浸れるのが楽しくて。書きながら広がっていく世界もたくさんあったので、今度は映画より先に小説を書いてみたいです。今後は“食”をテーマにしてみたいかな。私、食べるのも料理するのもすっごく好きなんですよ。『海辺の金魚』でも食の描写は多めですが、もっと焦点をあてた作品をつくってみたいですね。

海辺の金魚

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