小説『言の葉の庭』新海誠 − 特設サイト

ピックアップ

2016/2/12

  • 言の葉の庭について
  • 各話あらすじ
  • 小説化にあたって
  • みなさまの感想
  • 新海誠関連書籍

小説化にあたって

「言の葉の庭」の小説を書く、個人的な理由

新海 誠(しんかいまこと)

新海 誠(しんかいまこと)
1973年、長野県生まれ。アニメーション監督。2002年、ほぼ1人で制作した短編アニメーション『ほしのこえ』で注目を集め、以降『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『星を追う子ども』『言の葉の庭』を発表し、国内外で高い評価を受ける。小説作品に『小説・秒速5センチメートル』がある。

 アニメーション映画「言の葉の庭」の小説版が、『ダ・ヴィンチ』2013年9月号(8月6日発売)より連載開始となります。自分の原作映画を自身で小説化するのは、『小説・秒速5センチメートル』以来の2作目となります。
 46分の映画「言の葉の庭」は、最初から中編の物語として発想したものです。その最初の原型は四百字詰め原稿用紙にして20枚程度のスケッチ文章で(『ダ・ヴィンチ』2013年8月号掲載)、これを小説として体裁を整えたものを3回程度の連載に膨らませ自分で書いてみたいという気持ちが当初からありました。というのは、「言の葉の庭」はとても文章的な映像作品であるからです。
 たとえば雨の描写。映画では「二人の間をカーテンのように隔てる雨」という文字列のイメージがまずあって、その先に映像を作っています。あるいはタカオやユキノのモノローグ。僕の作品は商業デビュー作の「ほしのこえ」以降、「映像作品なのにモノローグで語らせるなど無粋だ」とのご批判も度々いただいてきましたが、しかし文章でのイメージを作品の原型としているために自分でもどうしようもない部分でもあるのです。言葉でしか表現しようのない感覚があるはずなのだとほとんど開き直って、「言の葉の庭」においても一人称と三人称を文中に混在させるような感覚でモノローグ演出を組み立てています。とにかくこのように文字として始まった作品ですから、それを個人的に「閉じる」ためにも小説を書きたいと、最初は思っていたのです。

 しかしこの考えは、映画が公開され観客の声が聞こえ始めるに従いだんだんと変化しました。たとえばユキノというキャラクターに寄せて、ご自身の経験を語ってくれる観客がいます。タカオの将来が心配だという観客がいます。あるいはタカオの母、いじめっ子の相沢、そういう人物の気持ちが分かると言ってくれる方々がいます。そして僕自身も観客の声を聞いているうちに、ユキノやタカオ、彼らを巡る人々のことをもっと深く知りたいという気持ちが強くなってきます。自分でも気づいていなかった物語の外側、あるいは可能性のようなものに、観客という語り手を得て初めて思い至らされます。映画では描かなかったエピソードとエピソードの隙間にどのような風景が広がっていたのか、そこを覗きたくなってきます。
 ですから小説「言の葉の庭」は、当初予定していたさらりとした短編小説ではなく、複数の人物が語り手となる、映画版よりもずっと広い範囲を描く長編として書くことにしました。二人だけの物語ではなく、タカオの母や伊藤先生や相沢さんも物語の主人公となります。作品を「閉じる」というよりは「開いていく」作業で、ノベライズというより新作を書きはじめているような楽しさのある仕事です。

 そしてなによりも、映画を小説にするという作業自体がとても楽しいということに、書いていると気づかされるのです。それは物語以前の部分、映像と文章の表現技術の違いという部分にも広がっている楽しさです。
 たとえば比喩について。映画を原作として小説を書いていると、まずは比喩をどのように使うのかという問題に直ちに突き当たります。小説にはビジュアルも音もないのだからそれは当然で、たとえば新宿駅のホームから見えるドコモタワーは映画では「ただそのように描けば良い」のですが、小説の場合は比喩を使わなければビジュアルに届く表現はほとんど出来ません。それはたとえばこのように書き得るでしょう。
「ホームの屋根に細長く切り取られた空のむこうには、まるで未踏の主峰のように代々木の電波塔が雨に霞んでそびえていて……」云々。
 出来の善し悪しはともかくも、情景を伝えるにはこのようにシミリ(直喩)をまじえ書く必要があるのです。シミリとは言うまでもなく、「未踏の主峰のように」の「ように」で表現する部分です。
これは映像表現の直截さに比して確かに不自由ではありますが、しかしこの不自由さは、ビジュアルでは決して届かないような文章表現の快感そのものでもあります。
 たとえばこういう表現。「彼は迷子のような表情でそう思う」。こういう文章はアニメーションでも実写でもワンカットでは表現困難です。短いセンテンスの中に主観(「迷子のような〜」)と客観(「彼は〜そう思う」)が混在し、その主観の部分はシミリであるために読み手の経験や記憶に自動的にリンクします。読み手は即座に、幼い時に味わった迷子の心細さをキャラクターに投影します。
それは映像のどのような技法よりも、簡潔で力強い文章の持つ機能です。書いていて、どうだ、これはアニメじゃ無理だろうと誰に向けるでもなく思ったりします。
 一方で、同じ比喩にしてもメタファー(暗喩)は映像の方が一般的にはより強力に機能します。たとえば「言の葉の庭」の映画ならばドコモタワーを旋回するカラスのカット、あるいは雨表現そのもの。それらはキャラクターの心情を代弁するものとして、文字通り言葉以上に雄弁たり得ます。文章で同じ機能を果たすためには、時には一節のエピソードを書き足す必要があるかもしれません。
 さらに、句読点やセンテンスの長さは、映像ではカット割り方やテンポに相当するかもしれません。一人称/三人称の書き分けはカメラワークにも通じる表現です。映画と小説、それぞれの表現で相互乗り換えが可能な箇所とほとんど不可能な箇所があり、小説を書くという作業は僕にとってはそれらを一行ごとに実感する作業でもあります。それは端的にとても楽しい作業なのです。

 「言の葉の庭」というタイトルは、ひとつの場所で「言の葉」という「その人の断片」を交換しあう物語というイメージでつけました。小説「言の葉の庭」は映画よりもずっと多くの「言の葉」が交換されていきます。お読みいただければ、幸せです。

2013年8月2日 新海誠