同居人がレズビアンの美少女だった話

コミックエッセイ

公開日:2014/10/10

 合コンの最中、トイレに行ったとき、同性から突然カミングアウトを受けたことがある。好意を寄せられた、あるいは同性愛者だと思われたんだとすぐに理解した。自分はノンケなので、その話の先はなかったが、別に嫌悪感もなかった。人が人を好きになる、という感情に、性別はあまり関係ないんだろうと思ったくらいの話だ。

 だが、カミングアウトした彼のほうは、かなり勇気が要ったのではないだろうか? 以前と比べたらずいぶん知識や理解は深まっている今の世の中とはいえ、どこでも受け入れられているわけではない。同性を恋愛対象としているだけなのに差別を受け、自分の本意を隠して生きるなんて、ヘンだと思う。

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 では、同性愛者はどうやって自分の居場所を、自分らしい生き方を手に入れればいいのだろうか?

 『同居人の美少女がレズビアンだった件。』(小池みき:著、牧村朝子:監修/イースト・プレス)に、その答えのひとつがある。

 本書は、著者の小池氏がシェアハウス時代に同居していた、タレントでレズビアンだった牧村朝子氏(まきむぅ)を、女性目線で綴ったコミックエッセイだ。

 小学生時代、初恋の相手が女の子だったまきむぅは、自分が「異常者」なのかもしれないと不安に陥った。その反動で、男子を好きになるよう努力し、交際もセックスも知った。 しかし、彼女が得た結論は「どんなに心を愛せても、男の身体は愛せない」だった。

 これ以上自分をごまかせないと、同棲相手と別れ、自分を変えようと5LDKに33人が住むシェアハウスに飛び込んだ。そこで、カミングアウトすることになる。

 33人という大所帯で、頻繁に入居者が入れ替わる場所だったのが良かったのかもしれない。同居人たちは驚きつつも、意外とすんなり受け入れた。それは同時に、まきむぅが自らのセクシャリティ=レズビアンを自覚することでもあった。

 やがて、初めての女性の恋人・森ガ(森ガールみたいなフランス人)と出会い、婚約をしたまきむぅは、仕事でもカミングアウトし、「日本初レズビアンタレント」としてブレイクする。事務所の社長でタレントの杉本彩氏からは「同じ立場で辛い思いをしている人のためにもメッセンジャーたれ」と後押ししてくれた。

 だが、せっかくありのままの「牧村朝子」で生きられるようになったのに、今度は使命感が、彼女を「レズビアンサポーター」という存在に仕立て上げてしまう。

 彼女が使命感を持って立ち向かう先に見えるのは、「ありのままの他人」を自分たちの枠に当てはめないと気が済まない人たちの多さだ。

 まきむぅが森ガと結婚生活を送るために渡ったフランスでは、2013年、同性の結婚を認める法案を巡って、賛成派も反対派も激しいデモを繰り返していた。

 反対派の中には「僕はパパとママの子」という文字が書かれたシャツを着せられた子どもが歩いていたという。同性愛を認めない人たちの主張は極論すれば「恋愛は男女間でのみ許される」というものであり、愛情という感情を、生殖能力の有無という肉体的構造で否定しようという、矛盾の塊なのだ。子孫繁栄至上主義とも言える考え方が、同性愛者たちを生きづらくしているのではないだろうか? そういう考え方は、同性愛者のみならず、不妊に悩む人たちをも苦しめているのではないだろうか?

 幸いにも、まきむぅの周囲には、家族や仕事関係者も含め、同性愛に理解のある人が大勢いた。「レズビアンタレント」を背負い込んで、肩肘張っていたまきむぅは、少しずつ重荷を降ろし、再び「牧村朝子」に戻った。「私はもう、自分のこと“レズビアン”だと思ってないの。その言葉にこだわる必要ないから」

 それが、今のまきむぅの言葉だ。

 正直、筆者は「レズの人の実態ってどんなの? エッチはどんな感じ?」などという、野次馬的エロ目線で本書を手に取った。だが、まきむぅの恋は、たまたまカップルの2人ともが女性である以外、男女のそれと何の違いもなかった。特段、目新しい展開やレズビアン論があるわけでもなかった。

 でも、それでいいのだと思う。まきむぅは、たまたま「女性を愛する女性」だった。つまり、レズビアンとはただそれだけのことなのだ。

文=水陶マコト