偏差値30台の不良が世界の名門大学へ――「結局、障害になるのって“自分の存在”や“思ってること”」鈴木琢也さんインタビュー【前編】

文芸・カルチャー

2015/10/5

 「バカヤンキー」と聞いて、あなたはどんなイメージを抱くだろう? その想像したバカヤンキーのはるか上(というか下?)のバカヤンキーだったのが、本書の主人公・鈴木琢也さんだ。24歳でアメリカへ渡り、世界中からエリートが集まるカリフォルニア大学バークレー校に入学、2015年に卒業した。いったい鈴木さんに何があったのか? 何がそんな行動へと駆り立てたのか? 何が彼を変えたのか? その半生が描かれているのが『バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。』(鈴木琢也/ポプラ社)だ。

ダメだと思ってた人でも、ちゃんとやれば人生はうまく行く

 「大学の友人であり先輩でもある日本人で、目利きと言われている人から『君の持ってる考え方とか、過去の経験を書いたら絶対いいと思う』と言われたんです。でも有名な経営者とかじゃないし、大学生の自分の話なんて今する必要ないでしょ、将来成功したら書きますよと言ったら、『いや、ぜったい今なんだよね』ってスゴイ言われて。信頼している目利きの彼が今だ、って言うなら書いてみようかなと」

 ちょうどその頃、日本で『学年ビリのギャルが1年間で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』が話題になっていることを日本在住の友人から聞いた鈴木さん。「ダメだと思ってた人でも、ちゃんとやれば人生はうまく行く、ということが社会的に注目を集めるタイミングなのであれば、僕が伝えたい事も伝わるかもしれない」と思い、『ビリギャル』が掲載された人生のストーリーを投稿するサイト『STORYS.JP』に自身の半生を掲載したところ、大反響を巻き起こした。それをベースにさらに考えを掘り下げ、大学を卒業した現在までをまとめたのが『バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。』だ。

「something」の意味がわからないまま渡米

 鈴木さんは1986年神奈川県川崎市生まれ。中学でグレ始め、家族との関係が悪化、警察のご厄介になることもしばしばで、さらに進学した高校も県内で最低クラスの偏差値、英語の授業はアルファベットを覚えることから始めるほどのレベルだった。卒業後はとび職となるが、父親が仕事で表彰されたことがきっかけとなり一念発起、とび職を辞めて勉強を始める。しかし新聞は読めない、漢字が読めないから辞書も引けない、本を一冊読み通したことすらない、という状態。それでも猛勉強の末に専門学校を卒業してIT企業に就職。しかし「もっと勉強したい!」とアメリカへの留学を決意、それもカリフォルニア大学バークレー校に入学することを目標とした。しかし翌週に渡米という段階で「somethingってどーゆー意味だっけ?」と言って父親を唖然とさせたというから、その肝の座り方には驚くばかりだ。

    「地元の友達は中卒とか高卒のヤツばっかりなんですが、19か20歳の頃に『せっかく生きて働くんなら、やりたいことやろうよ』って話をするくらいパワーがあって、建設会社を興したりとか、ホストクラブの経営者になったりとか、いろんなヤツがいるんです。留学しているときにアメリカから日本へ帰ってきてヤツらに会うと、目茶苦茶モチベーション上がりましたね!」

 カリフォルニア大学バークレー校はアメリカを代表する大学で、多くのノーベル賞受賞者や、Googleの会長であるエリック・シュミット氏、Appleの共同設立者であるスティーブ・ウォズニアック氏、元国連高等難民弁務官の緒方貞子氏、ソフトバンクグループを率いる孫正義氏などの逸材を輩出している世界でもトップクラスの大学のひとつだ。普通に考えたら「入学なんて無理」と誰もが思うハズだが、渡米した鈴木さんは激変した逃げられない環境の中でもがきながら、雑音にしか聞こえなかった英語を必死にマスターし、猛勉強の末に難関を突破した。

 「大学に入れるかどうかは正直わからないけど、僕の中では勝算があると思ったからアメリカへ行ったんです。その選択をする前に、『ホントにムリなんだっけ?』と疑って、ちゃんと考えたんです。周りから『そんなのムリだよ』って言われることを無視して『うるせぇ、うるせぇ! 黙れ!』って(笑)。結局、障害になるのって“自分の存在”や“思ってること”なんですよ。ムリだな、って思ったらムリになっちゃうんで、ホントにムリなのかどうか、まずは疑ってみることが大事なんです。不良になると『お前らなんか邪魔なんだ』と社会からゴミのように扱われるワケですけど、生きてる本人たちからしたらそんなことはない。だから『アイツらがそう言うのはわかる。でもそれを一旦置いといて、俺たちは俺たちのやりたいことをしようぜ』って周囲からのノイズを無視するっていうのは、子どもの頃から鍛えられてたんでしょうね」

変わるきっかけは父親の働く姿

 アメリカへ留学する前、まだ鈴木さんが高校を卒業してとび職として働いていた19歳の時、外資系保険会社で働いていた父親が仕事で表彰されることになり、ハワイで行われる式典に一家が招待されたことがあった。しかし当然のように行くのを嫌がる鈴木さん。しかし母親が粘り強く説得し、一家でハワイへと旅立つことになった。その式典に出席していた働く人たちの会話や誇らしい父親の姿を見て、それまで仕事を「金を稼ぐための手段」としか考えていなかった鈴木さんは「働くこと」について考え始めることになる。

 「父親の表彰式でダーンと変わったわけではなくて、ハワイからの帰りの飛行機で表彰式のことを思い出して、『なんかあのイメージよかったな』とか、仕事で鉄バイプを担ぎながら『今の俺、なんか違うんだよな』と考える時間があったんです。それで『なんかムカつくけど、親父みたいになりたいな』って、認めたくはないけど、でもやっぱカッケーな、って思って(笑)。そういう何か自分でもわからないうちに受け取ったことを頭の中で整理するというか、言語化するというか、そういう時間があったんです。なのでこれ以降は、“自分を変える”という時に考える時間を作ることを意識するようになりましたね。バークレーに入ってからも、勉強が忙しくなってくると作業みたいになってしまって、『なんで勉強してんだっけな?』みたいなことに陥ったりしたので、その時に敢えて自分の過去とか、これからどうしようかと考えたり、息抜きして運動したりボーッとする時間を作ると、『これ、誰かに聞かないとわからないな』っていう疑問や質問が出てくるんです。それで人と会って話すと『そういう考え方もあるんだ』と思って、前に進んでいくっていう。とにかく一回自分の中で煮詰めるのが大事で、情報を入れっぱなしではダメなんですよ」

 そして今回、本書を執筆するにあたって家族に話を聞いた鈴木さんは、新たな発見があったと言う。

 「それまでに父親との距離感はすごい縮まってたんですよ。でも母親とは遠かったんです。なので、母はそんなに大切なファクターではなかったのかなと思ってたんですけど、実際に話を聞いてみたら、父が仕事を頑張るようにドライブかけてたのは母で、僕のこともとても大事に思ってくれていたんです。当たり前なんですけど(笑)。それで心の底から母親とも近くなって、こう、なんて言うんですかね…日本語で言うとキモいですけど、愛せるようになりましたね。なのでわだかまりがなくなって、心の底から良い家族だなって思えたのは本を書いた後だったんです。この本は自分のストーリーではあるんですけど、家族の話なんです。家族みんながいろんな失敗をしながら、少しずつ改善をして、諦めないで前へ進んでいく、っていうのがウチの家族の共通点なんですけど、失敗なんて誰でもするものだと思って、失敗しても立ち止まらず、前に進んでいくことが重要なんです。だから諦めずにコミュニケーションを取りながら、家族と上手くやっていくのっていいなと思いましたし、読者の方にそれが伝わるといいですね」

【後編】に続く――

取材・文=成田全(ナリタタモツ)