『珈琲店タレーランの事件簿』作者最新作は、“謎解き”の楽しさと“家族小説”の温かさをWで堪能できる!

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/15


『道然寺さんの双子探偵』(岡崎琢磨/朝日新聞出版)

人間の本性は善か、悪か――?

累計160万部突破の人気シリーズ『珈琲店タレーランの事件簿』(宝島社)で知られる岡崎琢磨の新作『道然寺さんの双子探偵』(朝日新聞出版)は、そんな普遍的な大きな問いを鍵にして“日常の謎”を描くコージー・ミステリーだ。

福岡県・夕筑市の仏教寺院、道然寺。この寺には住職の真海とその息子の一海、ふたりの遠縁で日々の家事や寺の雑務全般を手伝っている古手川みずきのほか、レンとランという双子の中学生が住んでいる。レンは携帯ゲームに夢中で反抗期まっただ中の気難しい男の子、ランはインドア志向で甘いお菓子を何より愛する素直な女の子。どこにでもいそうな中学生だけれど、ふたりはちょっと複雑な事情を抱えている。というのも、レンとランには両親がいないからだ。

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14年前のある日、一海が僧侶になる前の16歳だったときのこと。朝になって雨戸を開けていた一海は、本堂の縁側の隅に打ち捨てられた朱色の毛布を見つける。恐る恐る毛布をめくってみると、出てきたのはふたりの玉のような赤ん坊。そこには、レンとランという赤ん坊の名前と伝える書き置きも残されていた――。

いわゆる“捨て子”だったレンとランは、

「こん子らはうちで育てればよか。おまえたちが、家族になってやりんしゃい」

という真海の鶴の一声で道然寺の子となったのだった。

自分たちが真海や一海と血のつながりがないことを早くから理解しながらも、家族の絆ともいうべきものを自分たちなりに見出して14歳になるまで元気に育ってきたレンとラン。そんな特殊な生育環境が影響しているのか、ふたりにはちょっとだけ変わっているところがある。それは他人の言動に対する考え方だ。レンは他人の言動について基本的に“悪意”があるものとして解釈してしまう。それは口癖の「寺の隣に鬼が棲む」という言葉にも表れている。これは「世の中には善人と悪人が入り混じっている」という意味だ。一方のランはレンとは逆に人の“善意”を信じて猜疑心というものを持たない。口癖は「仏千人神千人」。「世の中には善人がたくさんいる」という意味だ。このように対照的な人生観、信条を持ったふたりだが、共通して突出しているのは、人びとの言動に隠された真意を見抜く、類まれなる聡明さだ。

本書の語り手は、レンとランの年の離れた兄代わりの存在になっている一海。日々の法要や壇家まわりをする中で、一海はちょっとしたトラブルや奇妙な疑問、不可解な出来事に遭遇することになる。それは、大金の入った内袋だけが消えた香典袋の行方だったり(第1話「寺の隣に鬼は棲むのか」)、壇家の女子中学生の唐突な激情の理由だったり(第2話「おばあちゃんお梅ヶ枝餅」)、子宝に恵まれない女性の水子供養が巻き起こした騒動だったり(第3話「子を想う」)、交通事故死した身寄りのない女性の秘密だったり(第4話「彼岸の夢、此岸の夢」)するのだが、レンとランはその事情を見聞きするだけで、そこで「本当は何が起こっていたのか」を「人の言動は善意によるものか、悪意によるものか」という、それぞれの人生観と鋭い推理力をもってひもといていく。

そこで謎が解けて一件落着――とならないところが、本作のポイントだ。レンが“悪意”をもとに解決した謎をランが“善意”のもとに考えるとどうなるか。あるいは、その逆は。すべての謎が解けたと思われた事件の意味が、解釈が異なることで綺麗にひっくり返るところに本作のミステリーとしての妙味がある。複雑怪奇なトリックなどではなく、人間の心性の在り方によってモノの見え方を変化させるという謎解きの楽しさは、まさにコージー・ミステリーの醍醐味だろう。

本作は先に挙げた4編が収録された連作集。そのすべてに通底するテーマは“家族とは何か”という問いだ。実の両親の顔も知らないレンとラン、そんなふたりを育ててきた真海と一海、家事手伝いとして同居するみずき。彼らが感じる家族の絆はいわゆる“普通の家族”が感じる家族の絆とは違うのか? そして、血のつながりを持たない者たちはどのようにして家族になっていくのか? サクサクと気軽に読めるライトな謎解きの楽しさを味わいつつ、皆がそれぞれ抱えてきた“家族を思う気持ち”にホロリとさせられる。今後、道然寺の面々が家族としてどのような関係を築いていくのか、そんな家族小説としても豊かな味わいを堪能させてくれるシリーズになってくれることだろう。

文=橋富政彦