「天皇」も「文学」も「お気持ち」化する。あまりに”感情化する”日本の社会ってどういう状態?

社会

公開日:2016/12/23

『感情化する社会』(大塚英志/太田出版)

 2016年8月、天皇が生前退位について「お気持ち」を表明した。それに対する国民の反応は圧倒的な「共感」であり、同時期に行われた各世論調査でもそう結果が出ている。だが、このような「国民」の反応は図らずも本書の主題である「感情」という問題を明確化した出来事であり、「感情化」と本書が便宜上呼ぶ事態が天皇制に及んだのである、という指摘から『感情化する社会』(大塚英志/太田出版)は始まる。

 あえて本書のいう「感情化」の説明を外して、著者がここで何を問題としているのかを見ていこう。

 天皇とは何か、それは憲法で定められている。現行憲法は天皇の政治介入を禁じており、「国民の統合」、つまり社会なりパブリックなものの「象徴」として天皇を定義した。いわば天皇を民主主義の装置としたのである。

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 天皇が憲法の定めた「国民の統合」の象徴として「機能」しようとすれば、政治的言動を禁じられている以上、 ただひたすら国民の「感情」に「共感」し続けることしかできない。政策に関与できないならば選択肢はそれしかなく、「国民」もまた自分たちの「感情」を汲みとることのみを「天皇」に求めた。

 結果、「国民」は「感情」としてしか天皇の問題提起を受け止められなくなった。「お気持ち」の中で述べられているように、天皇自身は象徴天皇制を定めた現行の憲法を行動規範とし、そこから象徴天皇としての機能を導き出し、実行し、倫理化している。だがそれは理解されずに、ただ「お気持ち」に対して「共感」するかしないかという「感情」の問題になってしまった。中立的であり判断基準であるはずの憲法は、国民側にはスルーされているのである。それには憲法解釈を「お気持ち」としてしか表出しえない象徴天皇の立場があり、今回、主張された象徴天皇制を「機能」としてどう定義しなおすか、という問題は、この発言が「お気持ち」である限り届かない、という矛盾がそこにある。

 この絶望的なディスコミュニケーションこそ「感情化した社会」がもたらしたものである。理性や合理ではなく、感情の交換が社会全体を動かす唯一のエンジンとなり、何よりも人は「感情」以外のコミュニケーションを忌避する。つまり「感情」しか通じない関係からなる制度を「感情化」と形容する。

 このように第一章では感情天皇制論が取り上げられるが、本書の核は実は天皇論ではない。「感情化」する「文学」の現状を危惧する文芸批評こそが著者がもっとも主張するところだろう。

 「感情化する文学」とは、端的に言えば、わかりやすく、即効性があり、心地よい刺激をもたらす文学のことだ。詳細は本書をご覧いただきたいが、出版不況などという以前に、文学の感情化によってこれまで文学が担ってきた役割が急激に放棄されだしていることへの著者の焦燥があり、それならばいっそAIに書かせればよいともとれるところまで論旨が突き抜けている。

 本書は、本書がテーマとする「感情化」への迎合に真正面に対峙するかのように、心地よさとは無縁である。その指摘は鋭くザラッとした刺激があり、これを不快として遠ざけるか、理解しようと試みるかは読み手の勝手だ。だが、そこには、感情化する文章が持っていない、深い洞察に対する感銘や未知と遭遇する喜び、理解しようと考える面白さが後からジワリと広がってくる。年々顕著になる「感情化する社会」についても教えられるが、読書についても再定義させられる本である。文学や文章を書く人、読む人にぜひとも一読していただきたい。

文=高橋輝実