愛犬の頭に「タコ」が……。いずれ消えてしまう命が、ぼくに教えてくれたこと

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

『おやすみ、リリー』(ハーパーコリンズ ジャパン)

あえて乱暴に、簡単に言ってしまおう。本作『おやすみ、リリー』(ハーパーコリンズ ジャパン)は、「病気になった最愛の犬を亡くす」という話だ。

ペットを飼っている方なら、それだけでもう胸がグッと締め付けられるのではないだろうか。かくいう私も4歳のチワワを飼っており「もしこの子が死んだら……」という、まだ現実的ではない想像をしただけでも涙が出てきてしまうほど。

本書の翻訳者越前敏弥氏も、こう述べている。

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小説の翻訳の仕事をはじめて二十年近くになるが、訳出作業の途中で涙がこぼれたことは二回しかない。一回目は、エラリー・クイーンによる名探偵ドルリー・レーン四部作の最終作『レーン最後の事件』のラストを訳していたとき。そして二回目は、この『おやすみ、リリー』だ。

愛犬がいなくなる。

これはもう絶対に悲しいことで、そんなものを小説にされたらそりゃ泣くわ、というわけで……。私は「泣く準備」をしながら本書を捲ったのである。しかし……。

あれ? 想像してたのと、違うぞ??

本作は42歳の「ぼく」エドワードが12歳の愛犬リリーの頭に「タコ」が張り付いていることに気づき、その「タコ」を倒すべく奮闘する話だ。「ぼく」は決してリリーの頭にあるものを「腫瘍(病気)」とは言わない。あくまで「タコ」として、愛犬を苦しめる「腫瘍」と会話をしたりする。そんな「タコ」と話せるのなら、当然、愛犬のリリーとも話せる。2人は当然のように会話をし、木曜の夜には「どんな男に惹かれるのか を語り合う」そうだ。

一方、「ぼく」には関係のうまくいっていない恋人がいたり、母親に愛されているのかという不安を抱えていたりと、リリーに関すること以外の話も描かれている。

そして最終的に、「ぼく」は愛するリリーを苦しめる「タコ」と戦うため、船をチャーターし、海にまで繰り出すのだ。

「どういう話だよ?」と思われる方もいるのではないだろうか。正直、私もこの世界観に慣れるまで頭がついていかない時もあった。それでも、どこか引き込まれるものがあり、ページを捲り続けていた時、不意にハッと気づいたのだ。これはエドワードの「心の物語」なのだと。

リリーはエドワードにとって、ただの「犬」ではなかった。「きみのすること何もかもがぼくの人生を豊かにしてきたんだ」とエドワードが語る。そして大切なことを教えてくれた。“いまこの瞬間を生きること”“愛を自然に注ぎだすこと”だ。

再び翻訳者の越前氏の言葉を借りる。

悲しいというより、命の尊厳、そして生きることにまつわる真実の核のようなものに真正面から突きあたった気がして、涙が止まらなくなった。犬も猫も飼ったことのない自分がそんなふうになるなんて、まったく思ってもみなかった。そういう小説、自分にとって記念すべき作品を訳す機会を持てたことに感謝している。

そう、これはただ「愛犬が死ぬ」その悲哀を描いているわけではない。その出来事を通して、一人の男性の「心」を描いているのだ。

私は愛犬家だが、「愛犬がいなくなる」という意味での「涙」を本書では流さなかった。(もちろん、哀しかったけれど)。それよりも、もっと深いところで胸に刺さるものがあり、思わず涙がこぼれてしまった。

最後に、個人的一番のエピソードをご紹介して締めくくろう。

「ぼく」はリリーに「おちびちゃん」「おサルちゃん」といった、たくさんの愛称をつけている。不思議に思ったリリーは「どうしてそう呼ぶの?」と問う。「ぼく」は「きみのことを愛しているから」と説明する。

ふと、「ぼく」はリリーが自分のことをどう呼んでいるのか気になって尋ねてみると、「あの人」とのこと。残念に思った「ぼく」だが、犬は愛称を付けないのだろうと自分を納得させていた。

しかしある時、リリーはこんなことを言い出す。

「わたしね、ときどきあなたのこと、パパって呼んでるの」

このシーンが一番好きで、全て読み終わってから……リリーがいなくなってしまってから、ここに戻ると、どうにも涙が止まらなかった。

文=雨野裾

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