『長靴をはいた犬』 久美沙織 <3>
更新日:2015/8/10
「みたくね」。のっぺりと整地されたままほったらかしされている地面。自分もそんな干乾し状態になっているようで、詩帆はいたたまれずに故郷の町を出た。天神通りの美容室で働き始めた彼女の友達は小学5年生のタケフミくん。疎外感を身にまとったタケフミ君をみたとき、あえて自転車でころんで彼に声をかけさせたのだ。ゲームに興じるなかでおもわず口を衝いて出た言葉が二人の距離をさらに近づけた――あの日から4年半の震災小説。
「だまされた。してやられたんだ」
詩帆は言った。
タケフミくんは黙っている。テレビでは、音を消されたゲーム画面がカラフルにくるくるさかんに動いている。
「わたしを避難所にいかせるために、誰かゴローを始末したんだ」
「しまつ、って」
「さあ。知らないよ。どこかにつれてって、隠したんじゃないかな。お散歩しようって言われたら、疑いもなくついてっちゃうような子なんだから」
「…………」
「マサクニおじさんなんか、母が目配せしたら、いかにもうまくやりそうだよ。そんで、どこかに、リードつないで、動けなくして……追いかけてこれなくしたんだ。きっと。しかも、そういうことを全部、わたしのためを思って、やってくれちゃったんだよ!」
「…………」
「すっごい腹が立ったから、避難所になんかぜったい行かないって思った。みんなぜったい許さないって。ずっと家にいようと思った。いつゴローが帰ってきてもいいように待っていようって。きっと、もどってくる。そう思ったから。無事だった荷物ひっかきまわして、食べられそうなものとか、つかえそうなものを探しながら待ってたよ。ぜったいぜったい帰ってくるって信じて。でもね、夜になって……空気がひんやりして、ほんとうにほんとうに真っ暗になってね。自分の家なのに、こわいんだよ。すごくこわかった。誰か悪いひとがきたらどうしようって。こんだけひどい目にあったのに、まだなのかって思った。まだゆるしてもらえないのか、って。逃げるのも、戦うのも、もうとうてい無理だった。なんのちからも出なかった。あかりが近づいてきて、ああもうだめだって覚悟したら、とうさんだった。おまえが残るなら俺もここに残るかなって」
満天の星空だったような気がする。
こんな時も、空はぜんぜん変わらないんだなぁと思ったような気がする。
「とうさんに甘えるわけにいかなかった。とうさんは、肺の手術をしたあとで、まだ無理ができない時だったんだ。だからわたしは負けて……折れて……降参して。避難所にいって。そして、ずっと怒ってる。いまも怒ってる。それより、後悔してる。でも、誰を怒っても、恨んでも、まちがってると思う。自分がいちばんいやだ。わたしがもっとちゃんとしていれば、ゴローは、ゴローは、いなくなったりしなかったのに!」
詩帆が黙ると、タケフミくんもしばらくの間黙っていた。それから、低い男らしい声で、でもさ、と言った。
「どこいったの? ゴローは?」
ムッとした。
「なんでそんなひどいことを聞くの」
「いや、へんだなって思って。だって……ふつうの時ならわかるよ。車にのせて運んじゃうとか。どこかに閉じ込めとくとか、保健所につれてくとかできる。でも、震災の時は、そんなの全部無理だったし、みんなそれどころじゃなかったでしょ」
詩帆のくちびるはわなわな震えた。
「どうせ殺されたんだろうっていいたいわけ? ええ。ええ。そうだよね。邪魔だもん。ほっといたら、詩帆のとこにかえってきちゃうもんね。ひとがたくさん死んでるのに、犬なんか助けてられない。食べものだって、足りないし!」
あれはふつうの時ではなかった。なんの悪意ももたないものがすさまじい暴力をふるうことがありうるのだと、目のあたりにしたばかりだった。いると余計な犬一匹、取り除くのに、棒かなにかをひとふりするのは、誰かさんにとってきっととても簡単なこと。
「俺、避難所で、犬を見たよ」
タケフミくんがいった。
「おばあさんがヒシッって抱っこしてた。ぬいぐるみかと思った。チワワかなんか小さな犬だった。ぶるぶる震えてた。かわいそうに、きっとおっかなかったんだろうね。いやがってるひとはそりゃいたよ。不潔だとか不公平だとか、なんかブツクサいってた。けど、ほっといてあげようよって。とりあげるなんて残酷だって。そういうひともいた。俺もそう思ったよ」
詩帆はぽかんとして、それから、うそ、とつぶやいた。
「……それ、どこの話?」
タケフミくんは地名を言った。きいたことのある地名だった。地続きなのに、いまははるかに遠い、後ろにおいてきた、あの場所の名前のひとつ。
「苗字だけじゃなかったんだ」
知らずしらずのうちにこわばっていた体から、ちからがぬけた。
「あんたんちも、そうだったの」
「うち高台で、家は住めたから、避難所にいたの一週間ぐらい。オヤジ建設関係で、機械使えるでしょ。道路通すのにはじまって、頼まれるとどこでもいって、どかすとか掘るとかずっと不眠不休でがんばってた。あぶらがスッカラカンになってやっとはじめて休んだみたいな。あんたえらいね、神様みたいって、キエコ言ってた。あんたはきっと死んだら天国だわたしは地獄だけど、とか。ほんとはさ、オヤジ年寄りだし、血圧の薬とかなくなったらどうする気なんだって、心配しすぎて怒ってんだよ。ストレスかかると喧嘩売っちゃうタイプなのキエコは。素直じゃねーからあのひと」
だからか。三月のとき。あんな皮肉をいってたのか。
「わたしも素直になりたかった」詩帆はぼそぼそ言った。「ずっと後悔してる。誰が反対しても、いやがらせしても、ゴローといっしょにいたかった。いれば良かったって。なんでそうしなかったんだろうって、後悔して後悔して。母はすごく気にするの。ジモトの評判とか。みんながどう思うか、他人に迷惑かけてないかって。でも、誰に文句言われたって、バカ娘って言われたって、ゆずりたくないことはゆずらなくていいと思う。どんな罰をうけたって、あの子を失っちゃうよりは百倍千倍、ましだったのに!」
ゆがんだ顔をみせたくなくて、膝をかかえた。
しばらく、そのままふたりとも黙っていた。
「家ってさ」
と、タケフミくんが言った。
「なんなんだろう」
「いえ?」
「うん。あんとき、たくさんの家が壊れたっしょ? あっけなかった。ぼろ家はしかたないけれど、新築でも、あとかたもなくなった。オヤジがともだちに頼まれて建てたバリアフリーの家も、ねこそぎなくなってしまって」
詩帆はハッとした。なくなって、の、最初の「な」の音が高かった。耳に慣れた、あの土地の訛り。
「九十のばあちゃんと、新しく生まれてくる孫のために作った、夢の家だった」
「それはショックだろうね」
「そのひとに、家を貸した」とタケフミくんは言った。「うちは一家で会社に住めばいいってオヤジが勝手に決めちゃって、大喧嘩。昔、知ってたひとが世話してくれるからってこっちに来たけど……ぜんぜん知らない町で、さあきょうからここがおまえんちだよっていわれたってね。コンビニのほうが、ずっと、なじみがあった」
「…………」
「詩帆さんが、誰もいない家にかえるのやだっていったとき、同じだなあって思った。俺、冷房していい? って、冗談のつもりだったんだよ。なのに、いいよぉってすぐ言ってくれて、びっくりした。ちょーラッキーだった。ゲームして、好きなように冷房して。飲みたいもの飲んで、食いたいもの食って。これぞ家って思った。家って、きっと、欲しいものがあるとこだね? 自分の好きなものを集めとく場所。手をのばせばとれるとこに、おいとく場所。誰にも気ぃつかわないで。遠慮しないで、自分が自分でいられるとこ」
だから、とタケフミくんは言った。
「みんな、はやく、家にかえれるといい」
「うん」
「ほんとうの家に、かえれるといい」
朝霞秀子さまというそのお客様は二週間にいっぺんきちんきちんといらっしゃる。美容室カノンに、長年通ってくださっている、大切なお客さまだ。毎度メニューはまったく同じ。シャンプー&セット。ご自宅ではまったく洗髪しないらしい。若いころからそういう習慣なのだろう。
銀色まじりの白髪は分量が少ない。てっぺんなんかかなり薄くなっているから、うまくセットしないと地肌が隠せない。長年おなじみさんで、センスとテクニックのある宮田先生だから、じょうずに素敵に隠してあげる。カットはしない。というかもうほとんどまったくする必要がない。
ホットカーラーをまくと、頭がほのかにあたたかくなる。それが気持ち良くて、寝てしまうひとも多い。朝霞さまも必ず寝る。ぐうぐう寝てしまわれる。かなりはっきりわかるいびきもかく。
シャンプー台ならいいが、椅子にすわっていただいて、セットのこまかなところをやっている真っ最中にに寝こまれると、ちょっとやっかいだ。首がいきなりカクン、となったりすると、作業が狂う。勢いで巻きかけのロットがすっとんでいってしまったりする。せっかくのところがまたやりなおしになる。宮田先生がちいさくため息をついているのに、気付いた。
詩帆はちょうど手があいていたので、朝霞さまの椅子の横にそっと行ってみた。先生に目で、ちょっといいでしょうか、とたずねる。なに? てつだいます。やってみます。両手をのばす。お客様のあごを、そっと指先で支えた。
気持ちよくぐっすり眠ったままでいられるように。
ナイス! ぐっじょぶ! 先生が親指をたてる。
息をころして、気配を殺して、じっと、支えつづけた。ぶじに作業はすすみ、はかどった。ロットをはずすと、髪にゆるいカールがついている。少ない髪を損なわないよう、いためないよう、そうっそうっと梳いて、まとめていく。先生の指先が優雅でおしゃれな夜会巻きをつくりだした。髪束の最後の部分をくるりとまき、櫛でよく整えておいて、スプレー。
「はい。おつかれさまでした」
ケープをはずすと、朝霞さまは、びっくりしたようにまつげをぱちぱちした。
「あら、もうできたの。はやかったわね。ちょっとうつらうつらしてしまったかしら」あくまで上品におっしゃった。
終業時のミーティングでも、あれは助かった、いいアイディアだった、と、あらためて言ってもらえた。
「よく気付いたね。さりげなくて、鈴木さんらしいフォローでした。お客さまも、ぐっすり眠れて、きっといつも以上に気持ちよかったと思います。ありがとう! 今後ともよろしく!」
やるじゃん。いいこと考えたね。よかったね。センパイたちにも、口々にいってもらえた。
「鈴木さん、笑うとなんか可愛い」
「え」
「ほんとだ! 別人!」
ちょっと座ってみてくれない? と先生が言った。椅子に腰をおろす。先生は詩帆の髪を手にとって、あれこれやってみて、ちょっと考えている。
「ねえ、ここ。前髪、ちょっと切ってもいい?」
結局、自分史上いちばん短くなってしまった。眉毛がしっかりむきだしだ。でも、先生もセンパイも、いいじゃん、すごく似合う、可愛いし、なんか垢抜けた、若返ったよ、といってくれた。
「鈴木さん、ぜったいこのほうがいい。明るい」
なんだか気分がはずんでいる。ワインでも買って帰ろうかな。
コンビニに自転車で近づいていくと、タケフミくんが手を振っているのが見えた。誰かといっしょみたいだ。眼鏡をかけたすごく賢そうな子。
「おー、詩帆さん、やっと来た!」
タケフミくんはなんだか興奮している。薄っぺらいものをふりまわしている。眼鏡の子が、ちょっと、あぶないよ、割らないでよ、とかいっているから、その子のものらしい。
「なんなの?」
「いいから、ちょっとここ見て」
それはたぶんi PADとかなんとかいうものだろう。パソコン画面でみるような、ブログのページが表示されている。「デンちゃんのへんな癖発見」というのがタイトルらしい。
はいみなさま。いつもお馴染みおちゃめなわんこのデンに、きょう、ふしぎな癖をみつけたよ。
真代ちゃん三歳が雨の日でもおんもにでかけられるように、黄色い長靴を買いました。それをなにげに玄関においてたら。
写真がある。
黒い犬が立っている。四本足のうちの一本を、黄色い長靴につっこんで。
うそー! なんでー! デンちゃんそこでなにしてるのー!?
まぁびっくりしましたけども、うけちゃった。どうやら、デンは、長靴が好きみたいです。
もしかすると、前の飼い主さんが、長靴はかしてあげてたのかな。知ってるひとにはいまさらですが、デンちゃんのこの足は、さきっちょがちょっとありません。だから、そのままだと痛いときがあったのかもね。いまは大丈夫だよ。元気で、よい子です。
長靴をはいた猫は、素敵な奇跡をたくさんおこしました。
長靴をはいたわんこだって、きっと。
我が家にも、みなさまがたのおうちにも、これからも、たくさんのシアワセをどんどこ運んできてくれますように!
詩帆は見た。
まじまじと見た。
これもうちょっと大きくできない? とタケフミくんがいって、ともだちがなにか操作をした。写真が拡大した。
「ゴローだ……」
もうよく見えない。
「ゴロー……元気だったんだ……」
「ほんと? あたり?」
詩帆はただもううなずくことしかできない。
「よかったあ! やっぱなあ。やさしいひとっていっぱいいる。震災ではぐれた犬や猫を保護しようって運動してたひとが、けっこういたんだよ。おかげさまで再会して、またいっしょに暮らせるようになりましたって話も、どっかにあったと思う。だから、ゴローももしかしたらさがせるんじゃないかなって思ってさ。神田に協力してもらったんだ。こいつ、クラスでいちばん、パソコン詳しいの」
「ちなみにデンというのは」神田くんというらしいタケフミくんのともだちは、眼鏡をちょいと押し上げた。「たぶん、ハガレンから来てます」
「はがれ……?」
「『鋼の錬金術師』。ピナコとウィンリィが飼っている犬の名です。足を一本、
「さっぱりわかんないんだけど」
「マンガの話。神田は、クラス一のオタクでもある」
詩帆は笑った。
タケフミくん、いいともだちができたんだね。
「教えて。このひとにメールを出すにはどうやるの?」
【作者プロフィール】
久美沙織(くみ・さおり)
1959年岩手県生まれ。
コバルト文庫で活躍したのち、ゲームやコミックのノベライズ、エッセイなども執筆。著書に『丘の家のミッキー』『MOTHER』『新人賞の獲り方教えます』など。近著に『眠り姫と13番めの魔女 プリンセス・ストーリーズ』など。
こちらに収録予定の一編を先行掲載。
タイトル:『あの日から ~東日本大震災鎮魂 岩手県出身作家短編集~』
著者:高橋克彦、柏葉幸子、久美沙織、斎藤純、北上秋彦、
平谷美樹、松田十刻、大村友貴美、石野晶、沢村鐵、
澤口たまみ、菊池幸見
出版元:岩手日報社
発売日:10月11日発売予定