たやすく相手を判断し、傷つけ傷つけられる私たちの処方箋。レッテルに苦しむ人たちを描く『流れる星をつかまえに』

文芸・カルチャー

更新日:2022/9/2

流れる星をつかまえに
流れる星をつかまえに』(吉川トリコ/ポプラ社)

〈「物語」というものは他者の人生を垣間見ることで想像力の幅を広げ、すぐ近くの隣人を慮るための訓練のようだと思う。〉というのは、『流れる星をつかまえに』(ポプラ社)刊行にあたって著者の吉川トリコさんが寄せたコメントの一部。他者というのは、自分とはかけ離れた場所にいる、知らない誰かのことだけではない。その人の全部、とまでは言わずとも、だいたいどういう人だかわかっている、とたやすく思い込めるくらいすぐそばにいる存在のことも、私たちは意外とちゃんとは知らない。そして知らなかったからといって、やっぱりたやすく相手を傷つけてしまう。

 たとえば第一話「ママはダンシング・クイーン」は、高校生の娘をもつなつみが、ママ友と一緒にチアダンスを始める物語。アメリカの学園映画が大好きな彼女は「日本にプロムがなくてほんとよかった!」と心底安堵するくらい地味なタイプで、座右の銘は映画『アイス・プリンセス』の「女はいくつになってもプロムクイーンが憎いのよ!」というセリフ。でも、同じ四十代と思えない美しさを放つプロムクイーンのようなママ友にわだかまりを抱くのは、彼女が憎いからではなく、心の奥底で彼女のようになりたいと願っているからではないか。そう気づき、〈これは私が私を取り戻すためのチャンス〉と奮起した彼女は、どんどん痩せて溌剌とした輝きを取り戻していくのだが、いちばん反発心を見せたのは、母親が“おばさん”であることを嫌がっていたはずの娘・葉月だった。

“葉月ママ”ではなく“なっち”として輝きはじめた母親に、戸惑う気持ちはわからなくもない。おばさんのくせに、と言いたくなるのは、わかりやすくて納得しやすい世界の秩序を守りたいからだ。世の中には、分(ぶん)というものがあって、おばさんはおばさんらしく、自分の身の程をわきまえていなくちゃいけない。そう思うことで、高校生なんだからとか、女の子なんだからとか、いろんな理由で強いられる我慢も耐えられる。自分の“今”を肯定し、守るために、人は他者にレッテルを貼り、わかりやすく分類していく。

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 なつみだって、同じだ。美しいママ友を〈なんでも意のままにしてきた挫折知らずの女王蜂と頭から決めつけ、ちゃんと彼女を理解しようなんてこれっぽっちも考えたことがなかった〉のは、“おばさん”のレッテルを貼られて苦しい自分を、慰めるため。でもそれじゃあ、誰も幸せになれない。傷つけあうことはあっても、手をとりあうことなんて、できないのだ。

 本作には、レッテルに苦しむ人たちが多く登場する。とくに、16歳になる直前まで在日韓国人であることを知らされてなかった2人の姉妹をとりまく状況は、複雑だ。〈私は私だ――と言い切ってしまえるほど私は無頓着でも無責任でも無知でもないから、これから先も惑い続けていくのだろう〉という一文も、重い。けれどその重さにただ打ちのめされるのではなく、姉妹が自分たちの身近にいたならば、自分の友達で、学校の先生で、当たり前に笑いあえる存在であったならば、彼女たちを傷つけないために一体何ができるだろうと想像してみることが、きっと、私たちには必要なのだ。

母親に触発されて、葉月は高校でプロムを開催しようと、文学部の友人たちと動き始める。葉月たちがめざすのは、地味な生徒がはじき出されるのではなく、クイーンが敵とみなされるのでもない、誰もが手をとりあってダンスすることができる、輝きに満ちた場所。少しずつ手をとりあいながら、みんなが“私”を模索する本作が、めざす場所もきっと同じである。

文=立花もも

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