「効率」を最優先する現代社会に問いかける! 「ムダ」の中に隠された、楽しく豊かに生きるヒント

暮らし

公開日:2023/2/24

ナマケモノ教授のムダのてつがく 「役に立つ」を超える生き方とは
ナマケモノ教授のムダのてつがく 「役に立つ」を超える生き方とは』(辻信一/さくら舎)

「ムダ」は無くすべきもの。そんなイメージを持っていないだろうか。食べ物や資源のムダは極力少ない方がいい、時間も手間もムダにかけたくない。そう考える人も多い。ある意味、現代社会の共通認識として「ムダ=いらないもの」という空気ができてしまっているように感じる。

 ムダを極力控える我々現代人に、ムダについて改めて考えさせてくれるのが『ナマケモノ教授のムダのてつがく 「役に立つ」を超える生き方とは』(辻信一/さくら舎)だ。中南米で出会ったナマケモノの生態に魅了され、自らを「ナマケモノ教授」と名乗るようになった辻信一氏。一見、ムダな生き方をしていそうなナマケモノだが、実はエネルギーを使わず、ムダなく生きているのだとか。そんなムダについて考えるナマケモノ教授が、ムダを考え直すためのヒントをくれるのが本書だ。


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「なくてはならない仕事」以外の仕事

 コロナ禍で耳にする機会が増えた「エッセンシャルワーク」。主に医療や介護、清掃、ごみ処理など、生活になくてはならない仕事を指す。改めて考えてみれば、世の中の大半の仕事は、無くなっても多少不便なくらいで困らないことばかり。今、こうして私がしていることも、残念ながらムダな仕事の一つだろう。「エッセンシャルワークに従事する人たちのおかげで、生活ができ、ムダな仕事ができている」なんて、考えてしまうとなんだか憂鬱な気持ちになってしまう。

 コロナ禍、なくてもすぐには困らない仕事として議論された一つが、エンタメ業界。ドイツでは「芸術は生命維持に必要である」として国から手厚く支援がなされたが、日本では生活に苦しむ芸術家が多く見られた。日々、楽しく生きるためには芸術は必要。だから支援すべきだ、と私は思っていたが、本書は「その考えもどうだろう」と問いかけてくる。

 必要だから、役に立つから保護するという考えそのものが間違っているのでは? 芸術では腹は満たせず生命維持には不要だけれど、ただ好きだから作り手も受け手も楽しんでいるだけ。人間はそうして芸術を愛してきたはずだと本書は語る。

「ムダ」を役に立つかどうかで判断するのではない。あえて「ムダ」としたまま取り込んでいく考え方が必要なのだろう。

脱穀機がもたらすものと奪われるもの

 著者がインド・ラダック地方の村へ行ったときのエピソードも印象的だ。ラダックでは手作業で脱穀を行う。どの作業にも歌がつきもので、麦のワラと実を分けるための風を起こすとされる口笛の「風を呼ぶ歌」が特に美しいという。脱穀機を導入すれば1週間の作業は1時間で完了する。しかし、美しい歌が失われてしまう。一方、村は過疎化が進み、近代化も必要。どちらを選ぶか、答えはすぐには出ない。

 私たちの身の回りにも同じような出来事があふれている。例えば、コーヒーを淹れるとき。ミルで豆を挽く。力がいるし時間もかかるが、豆を挽く音は心地良く、お湯を注ぐと泡立つのを見ていて楽しい。

 コーヒーメーカーならば、ものの数秒で豆を挽いてくれる。音は激しく、抽出の様子も見えないけれど、あっという間に美味しいコーヒーが楽しめる。ラクなのは、圧倒的にコーヒーメーカー。それでも、私は自分の手で淹れるコーヒーを愛してやまない。

 ラダックの村に脱穀機を導入すれば、手作業より安定した生産が可能だ。しかし、電動機械を使わない手間の中にある「美しさ」や「楽しさ」をムダと切り捨ててしまう。これを、切ないと感じてしまうのは私だけではないだろう。村の存続とコーヒーの淹れ方は並べられるものではないが、日常のいろいろな場面に、こうしたムダと便利の関係が隠れているはずだ。

「ムダは無くすべき」と反射的に思っていたが、本書を読んでそれは乱暴な考え方であると感じた。本書では他にも「テクノロジーを使わないことにした男」のエピソードや、教育の中でムダとして排除されがちだった「遊び」を大切にしている学校などが紹介されている。

 否定的なニュアンスが強いムダという言葉。その中にこそ楽しく豊かに生きるヒントが隠されている気がする。あなたも「ムダ」について、改めて考えてみるきっかけとして本書を読んでみてはいかがだろうか。

文=冴島友貴

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