総合月刊誌『文藝春秋』創刊100周年記念! 文藝春秋の創業者にして芥川賞、直木賞を創設した菊池寛の生涯をたどる

文芸・カルチャー

公開日:2023/3/24

文豪、社長になる
文豪、社長になる』(門井慶喜/文藝春秋)

 1923(大正12)年1月に創刊され、小説や評論、手記、インタビュー、ルポルタージュ、社会批評、そして世紀のスクープから軽妙なエッセイまで硬軟取り混ぜた総合月刊誌『文藝春秋』が昨年100周年を迎えた。この雑誌を立ち上げた人物が、文藝春秋創業者で作家の菊池寛だ。その菊池の人生を史実に基づいたフィクションとして描き出したのが、2003年に『キッドナッパーズ』(文藝春秋)で第42回オール讀物推理小説新人賞を受賞して作家となり、2018年に宮沢賢治の父の視点で描かれた『銀河鉄道の父』(講談社)で第158回直木三十五賞を受賞した小説家・門井慶喜の『文豪、社長になる』(文藝春秋)だ。

 菊池寛(筆名は「かん」だが、本名は「ひろし」と読む)は1888(明治21)年、現在の香川県高松市に7人兄弟の四男として生まれた。本書はその高松に大きな図書館ができた1905(明治38)年、菊池が17歳のときから始まる。菊池はこの図書館の蔵書約2万冊をほとんど読んでしまったという天才で、京都帝国大学を卒業した後に作家となり、社長として文藝春秋を立ち上げる大人物……なのだが、そこまでにいろいろと遠回りをしたり、しなくていい苦労をしたり、余計なお節介や面倒見の良さがあったり、信じた人を最後まで信じ抜くピュアな人柄だけどちょっといい加減だったりなどなかなか紆余曲折な人生で、小説を読んでいると「この後、菊池さんどうなっちゃうの?」とページをめくる手が止まらなくなるほどだ。

 菊池は何度も学校に入っては辞めを繰り返し、ブスブスと燻り続けつつも、芥川龍之介や久米正雄らと「新思潮」を出版して文豪・夏目漱石の門人となるなど、道を外れそうになりながらも踏みとどまって書き続ける。友人である芥川に仕事を紹介してもらい、作家としての地歩を固め、ついに1920(大正9)年、新聞連載小説として執筆した『真珠夫人』(本作は2002年に中島丈博脚本でドラマ化され「たわしコロッケ」が登場して話題になるなど“昼ドラブーム”を巻き起こした)で流行作家となった。その後、若き作家たちのため自分が骨折りをすれば良いのだが、到底時間がない菊池が彼らの作品を掲載しようと創刊したのが『文藝春秋』だ。菊池は創刊にあたり「私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云って見たい」と書いている。

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 その巻頭ページは、世話になった芥川に原稿を依頼(後にこの連載は『侏儒の言葉』としてまとめられている)するのである。また作家として頭角を現しながらも書く場のない直木三十五(直木は今の“文春砲”のような文壇ゴシップ記事を『文藝春秋』に書きまくっていたそうだ)に発破をかけ、流行作家として育て上げる。しかしふたりは若くして亡くなってしまう。菊池は「あまりにも命みじかく死んでしまった畏友ふたりの魂への埋め合わせができる」と考え、ふたりの名を冠した文学賞を創設、受賞者も賞も長生きしてくれることを望んだ。その精神は受け継がれ、芥川龍之介賞と直木三十五賞は21世紀の今も多くの作家を輩出し続けている。義理堅い菊池の思いは、脈々と生き続けているのだ。

 やがて菊池と『文藝春秋』の運命は、抗いがたい歴史に飲み込まれて行ってしまうことになる。しかし仲間たちに助けられ、小説を書き、雑誌を作り、アイデアを出し(「座談会」は菊池が考え出した形式だそうだ)、菊池の人生は流転を続ける。またなぜ『文藝春秋』という名前なのかの秘密も明かされるので、最後まで楽しみに読んでもらいたい。そして本書には実際に菊池と関係のあった有名人や作家、『文藝春秋』の関係者もたくさん登場するので、名前を調べながら、気になった作家の著作を読んでみるのも楽しいだろう。

 東京・紀尾井町にある文藝春秋本社1階にあるサロンには、タバコを手にして微笑む菊池寛の像がある。漫画『文豪春秋』(ドリヤス工場/文藝春秋)では菊池像が文壇ゴシップを突然語り出していたが、もしサロンへ行くことがあったら、こちらから菊池像に向かって「菊池さんの人生、大変だったんですねぇ」とつい話しかけてしまいたくなるくらい、読後には菊池寛という作家に愛着を感じることだろう。

文=成田全(ナリタタモツ)

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