乳房、卵巣、子宮を失ってもーーガンを宣告された西加奈子が”自分”と向き合ったノンフィクション

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/2

くもをさがす
くもをさがす』(西加奈子/河出書房新社)

「西加奈子」という作家の物語に、これまで幾度となく救われてきた。『さくら』にはじまり、『漁港の肉子ちゃん』、『iアイ』、『きりこについて』、『きいろいゾウ』、数え上げたらキリがない。一昨年に刊行された『夜が明ける』は、それこそ一晩中、夜が明けるまで読み耽った。そんな私の西加奈子愛を熟知している友人から、先日、本が届いた。明るい黄色の背景に、蜘蛛のイラストの装丁。西加奈子氏による初のノンフィクション作品『くもをさがす』(河出書房新社)である。

 著者は、カナダのバンクーバーで乳がんを患った。本書には、その当時の状況や心境が克明に綴られている。

“これはあくまで治療だ。闘いではない。たまたま生まれて、生きようとしているがんが、私の右胸にある。それが事実で、それだけだ。”

 がんが生きるか、患者が生きるか。その拮抗を“闘い”と表現する人は多い。だが、事実だけを見据えて治癒に臨む著者の姿は、あまりにもまっすぐで、読む側の心を圧倒する。

advertisement

 がんと宣告されてすぐ、著者は髪を剃った。ずっと坊主頭に憧れていたはずなのに、バリカンを入れられた瞬間、著者は泣いた。治療に際しては、語学力の壁にぶち当たった。意思疎通がうまく取れず、病院側の不手際も重なり、本来受け取るべき日に薬を受け取れなくて、薬局で声を上げて泣いた。挙げ句、全16回の抗がん剤治療をあと1回残すところで、コロナウイルスに感染した。コロナに感染してはじめて、著者は「どうして私が」と思ったという。強烈な咽頭痛に苛まれ、食事を摂ることもできず、泣きながら梅ガムを噛んだ。

 治療の最中、著者は何度も泣いた。しかし、弱さや無力さは「恥ずべきこと」でも「忌むべきこと」でもないと著者は語る。一人ではできないから助けてもらう。弱いから支えてもらう。そうやって、人は生きている。

 本書を読みながら、著者の前作『夜が明ける』に登場する一節を思い出していた。

“苦しかったら、助けを求めろ。”
『夜が明ける』より引用

 日本では、「人に迷惑をかけてはいけません」と言われて育つ子どもが多い。そのためか、大人も子どもも、SOSの出し方があまりうまくない。たしかに、助けを求めることで相手に迷惑をかけることもあるかもしれない。それでも、苦しかったら周囲に助けを求めてほしいと私は思う。自分の大切な人が、一人きりで苦しんだ挙げ句にいなくなってしまったら、絶対に嫌だ。「助けて」と言ってほしい。「助けて」と言いたい。互いにできることは小さくとも、きっとゼロじゃない。

 本書には、印象的な言葉が数多く登場する。中でも、漢方薬の使用を続けるか否かで悩む場面で、著者がインターンのサラに言われた台詞は、私の心の奥深くに沁みわたった。

“「あなたの体のボスは、あなたやねんから」”

 治療方針を決めるのは、患者自身。そんなスタンスで接する医療者に、著者は幾度となく救われる。また、日々の記録と共に、さまざまな書籍の言葉が多数引用されている点も、本書の特徴といえよう。著者の血肉となった言葉、「本」という存在、書くこと、読むことで支えられてきた魂――本書には、著者の“命”がぎっしりと詰まっている。

 著者は、治療のために両乳房を切除した。また、BRCA2の変異遺伝子があるため、将来的に卵巣の切除をすることも決まっている。遺伝子医学の医師からは、「子宮も取ったほうがいいかもしれない」と助言された。それを踏まえて、著者はこう綴る。

“乳房、卵巣、子宮、という、生物学的には女性の特徴である臓器を失ったとしても(ちなみに今私は坊主頭だが)、それでも私は女性だ。それはどうしてか。私が、そう思うからだ。私が、私自身のことを女性だと、そう思うからだ。”

 自分の体のボスは自分。それと同時に、自身のセクシュアリティを含む心の内側のボスも、自分自身だ。他人でも、世間でも、国でもない。

 著者の祈りと決意が込められた本書が、多くの人に届いてほしい。私がそうであったように、本書にちりばめられた言葉の数々に救われる人が、きっと大勢いる。私に本書を届けてくれた友人も、おそらく同じように思ってくれたのだろう。

 何が起きても、何を失っても、これからも生きていこう。声を上げて泣いた著者が、声を上げて笑ったように。本書に描かれた人間の“生への渇望”を正面から見据えたのち、無理なく自然に、心からそう思えた。

文=碧月はる

あわせて読みたい