帝国ホテル新館の建設は茨の道だった!? 近代建築の巨匠・ライトの采配がもたらしたものとは【書評】

文芸・カルチャー

公開日:2023/7/14

帝国ホテル建築物語(PHP文芸文庫)
帝国ホテル建築物語(PHP文芸文庫)』(植松三十里/PHP研究所)

 愛知県犬山市に明治村という野外博物館がある。1965年(昭和40年)に開村したこの明治村には、大小様々な明治時代の建物が移築・復元されていて、欧米からの技術と文化を吸収しようとした近代日本の熱気を肌で感じることができる。そんな明治村の奥に、他の明治時代の建築とは一線を画す建物がある。かつては東京にあり、日本を代表するホテルとして数多くの外国人客を受け入れてきた旧帝国ホテルの中央玄関である。1890年(明治23年)に国際観光のパイオニアとして開業した初代帝国ホテルは、大正に入ると来日外国人の増加と施設の老朽化により建て替えられる。1923年(大正12年)9月1日に新館として開業したのがこの明治村に残されているものである。そしてこの帝国ホテル新館を設計したのが近代建築の三大巨匠の一人として知られるフランク・ロイド・ライトだった。

 植松三十里『帝国ホテル建築物語(PHP文芸文庫)』(PHP研究所)は、新館を設計することになったフランク・ロイド・ライトと、ホテル支配人の林愛作、そして後にライトの弟子となる遠藤新を軸に、帝国ホテル本館、通称ライト館が東京日比谷の地に建てられるまでの物語である。

 初代帝国ホテルが建てられてから20年ほど経った頃、支配人に就いたのは林愛作という元古美術商だった。林は大実業家であり帝国ホテルの大株主でもある渋沢栄一より依頼を受けて帝国ホテル支配人に就き、渋沢から新館建設を任される。そこで林が選んだ建築家が、古美術商時代の顧客であった浮世絵収集家のフランク・ロイド・ライトであった。また建築工事のスタッフとして、当時東京帝国大学工科大学建築学科を卒業したばかりの遠藤新を採用する。

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 すでに数度来日し、日本に深い関心を持っていたライトは新しい帝国ホテルの資材は基本的にすべて日本国内のものを要望した。日本のレンガ造技術の集大成と言われた東京駅が建てられた当時、石材は赤レンガが一般的であったが、ライトはスクラッチブリックと呼ばれる、表面に細い傷をつけて焼いた黄色いレンガにこだわった。また当時は暗渠などに使用され、石材として注目されていなかった宇都宮の大谷石が選ばれるなど、石材ひとつにしても日本人の先入観を排した資材をライトは選んだ。

 しかし大谷石の彫刻では、完成したビジョンが見えているライトと石工とで意見の対立が起こるなど、天才肌で感覚を重要視するライトは、現場で日本の職人たちとたびたび衝突する。また、建設地の日比谷の地も問題だった。日比谷はかつて入江であり海だったが、徳川家康が埋め立てた地である。海底だった土壌は柔らかい粘土層で、コンクリートと石材で建てられる重量のある帝国ホテルにとって不向きであった。そして当初2年だった工期も延びに延び、株主や理事からはライトに疑問の声が上がる。ライトによる帝国ホテル新館は、ライトへの不信や日本人と外国人技師との軋轢など、建設決定から開業当日まで様々な難問、困難がふりかかる一大事業であったことが本書から窺うことができる。

 フランク・ロイド・ライトは有機的建築を提唱し、部分から全体へ、全体から部分へと連動する一体性を表す意匠が特徴で、「かたちと機能はひとつのもの」であるという。本書のなかで印象的なのが、大谷石に張られた金箔が同時に反射するように石工にライトが怒鳴って指示する場面である。客がその場を通る際、金箔に照明が反射することで驚かす仕掛けで、空間から人間へと連なりを考えたライトのこだわりだ。また、本書で遠藤新が語るように、ライトは日本人が気にも留めないような文化的意匠を建築に施すことで、日本人には欧米的な印象を、欧米人には日本的な印象を与える深みのある建物を生み出すという。

 ライトが建てた帝国ホテルは今でも愛知県の明治村に残り、実際に建物内を見学できる。中央玄関部分と正面の池、車寄せと、かつての帝国ホテル全体からすればわずかではあるが、中に足を踏み入れるとライトのこだわりと空間の奥深さに感動を覚えずにいられない。ぜひ本書を手に訪れてほしい。

文=すずきたけし

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