ながらスマホの自転車にわざとぶつかってみた…「いい子」は割に合わないことを物語る『いい子のあくび』

文芸・カルチャー

公開日:2023/7/15

いい子のあくび
いい子のあくび』(高瀬隼子/集英社)

 雨の日に、傘を真横にして歩いている人を見ると、ときどき「刺さりにいってやろうか」と思うことがある。「痛い!」と腹を抱えてうずくまれば、それがどんなに危険であるか思い知るんじゃないか、と。もちろん、リスクが激しすぎるので実行したことはないが、歩きスマホ・自転車のよそ見運転に対して、それを実践してしまうのが高瀬隼子さんの小説『いい子のあくび』(集英社)の主人公・直子である。

 誰にでも愛想がよくて、気配りがきいて、その人が欲しいであろう言葉をさりげなく提供できる直子は、「いい子」で「いい人」である。けれど根っからの善意で行動しているわけではなく、すべてが作為である自覚があるから、それに気づかず無邪気に自分を愛し結婚したがる恋人の大地のことは、見る目のない馬鹿な男だと思っている。そんな彼女の、負の感情を発露させる先が、「避けてもらって当然」と思っている道端の人たちだ。

 直子は、スマホをしながら自転車を漕いでいる中学生に、体当たりをしにいくわけじゃない。ただ、避けなかった。結果、ぶつかって、彼も転んだ。それだけ。その場合、悪いのはいったい、どちらだろう?

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 直子だって、特別意識しなくても、するりと自然に彼らを避けることくらいできる。身体に沁み付いているから、むしろ避けないでいることのほうが大変だ。だけど、自分ばかりが気づいて、避ける。そんなのは割に合わないと思っている。花瓶の水が汚れている。会社の備品が足りていない。これまでの人生で、人より先に何かに気づいて行動することの多かった直子は、やはり「いい子」だ。けれど心から褒めてくれる人もいれば、いい子ぶりやがって、の気持ちをこめて感謝を示してくる人もいる。やっぱり、割に合わない。なんて、損得勘定ばかり考えてしまう自分を卑しく思うが、だからといって「じゃあやらない」を選択することもできない。ただ、身の内にふつふつと湧き起こる理不尽に対する感情をおさえきれずにいる。

 かなり、歪んでいる。だが一方で、わかる、とも思う。世の中「やったもん勝ち」というけれど「できないもん勝ち」でもある。だからといって、直子は気づかないふりをして、できない側に立つこともできない。たぶん、いい子である自分にくだされる髙評価を、生きる上で必要としてもいる。だから、自分の本性を見抜けない彼氏の大地を馬鹿だと思いながら、実は自分を蔑ろにしていた大地に気づいた瞬間、傷つく。そんな矛盾が人間らしくて、読みながらとても愛おしい。そして安堵もする。歪んでいたっていいんだ。人に見せる顔が根っからの本心でなくても、生きていたっていいのだと。

 本作に収録されている他の2編もまた、うまく感情を割り切れなくて生きづらさを抱える女性たちが描かれる。とりつくろうことに慣れてしまった大人からすれば、もうちょっと肩の力を抜けばいいのに、と言いたくなるくらい不器用で、意固地な彼女たちは、本当はそんなものに慣れたくなかった、と思っている私たちの合わせ鏡でもある。こんな自分はどうしようもないとわかっているけれど、それでもどうにか、自分のままで明日もその先も生きていきたい。そんな彼女たちの祈りに揺さぶられ、そして少し、救われる。

文=立花もも

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