失踪した父の帰りを待つ日本酒バー。無類の日本酒好き女店主とお客さんとの心の交流が温かい、日本酒人情コミック

マンガ

PR公開日:2023/11/27

やえの酒めぐり
やえの酒めぐり』(本郷司/少年画報社)

「おけえんなさい」――東北の方言で、「おかえりなさい」を意味する言葉である。私は東北の出身で、この訛りには馴染みがあった。そのため、本郷司氏によるコミック作品『やえの酒めぐり』(少年画報社)に登場する店名を目にした時、思いがけず郷愁を誘われた。

 路地裏にある日本酒バー「おけえんなさい」は、福島出身の店主・旭やえが営んでいる。何かしらの思いを抱えて店を訪れるさまざまなお客の心を、とっておきの日本酒とつまみで柔らかくほぐすやえの店は、まるで実家の団らんのような居心地の良さを醸し出す。日本酒と人情が交錯する本書は、吟醸酒の後味のように爽やかな読後感だ。

 本書は、1話ごとに異なる種類のお酒が登場する。精米歩合の割合や香りの特徴、口当たりなどを説明するやえの熱量は凄まじく、「日本酒のことになると饒舌になる」とお客から称されるほど。提供する日本酒の魅力を紹介しながら、自身も同じお酒を味わっているかの如く恍惚な表情を浮かべるやえは、無類の日本酒好きであることがうかがえる。

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 酒造りは、米と水を原料とし、その土地ごとの気候を活かして行われる。故郷の酒、思い出の地の酒、現在住んでいる土地の酒。それぞれの風土を感じられる「日本酒」という存在は、一処にいながら各地を旅しているかのような気分をも味わえる特別な飲み物だ。何を隠そう、私もその魅力に取り憑かれた一人である。アルコールの中で一番好きなものは何かと問われたら、迷いなく「日本酒」と答える。

 40年勤め上げた会社を退職し、深い喪失感を抱く男性。子どもの頃に過ごした夏を懐かしく思う女性など、日々さまざまなお客が「おけえんなさい」の門をくぐる。ここでは、第2話に登場する常連の菅原さんこと「すーさん」のエピソードを紹介したい。

 すーさんには娘がおり、「おけえんなさい」を訪れた日は、娘の結婚式の前日だった。喜ばしい気持ちより、娘が手を離れていく寂しさが勝っているすーさんは、極上のお酒を勢いよく飲み干してしまう。すーさんは、「酔いたい気分なんだ」と即座におかわりを求めた。しかし、やえはお酒ではなく1杯の和らぎ水(お酒の合間に飲むお冷のこと)を差し出す。

 やえがすーさんに提供したお酒は、山口県にある新谷酒造の純米大吟醸「わかむすめ燕子花」。このお酒は、以前からすーさんが「飲みたい」と言っていた希少なものであった。酒米の王様といわれる山田錦を精米歩合40%まで磨き上げ、繊細な作業を積み重ねて造られた銘酒は、手間暇がかかるぶん生産量も少ない。そんな日本酒とすーさんの娘を重ね合わせて、やえはこう語る。

“何かを造るとか育てるって、本当にすごいことだよね。で、それが誰かの特別になる。”

 すーさんが大事に育てた娘が、誰かの“特別”になった。それと同様に「わかむすめ燕子花」も、“誰かの特別”になってほしいと願う造り手が、丹精込めて造っている。やえの言葉でそのことに気付いたすーさんは、和らぎ水を飲んだあと、グラスを差し出してこう言った。

“「わかむすめ」もう一杯くれないかな?次はもっと大事に飲みたい。”

 はにかんで快くおかわりを注ぐやえの表情は、喜びに満ちあふれていた。巷には、お客がどんな飲み方をしようと、酒が売れればそれでいいと考える店もある。吐け口のように酒を煽るお客を窘めるやえの店は、売上の面で見れば前者に劣るかもしれない。しかし、人としての温もりを感じられるのは、圧倒的にやえの店であろう。やえの姿勢は、彼女が日本酒バーを営んでいる理由と深く関わっているように思う。やえは、店を「帰れる場所」にしたいと考えていた。彼女は、幼い頃に失踪した父の帰りを長年待ち続けていたのである。父の忘れ形見である、「八重」という名のお酒と共に。

 やえは、お客さんを送り出す際、「行ってらっしゃい」と声をかける。帰れる場所、そして、再び旅立っていく場所。そんな安息所があったなら、厳しい社会を生き抜くのが少しだけ楽になる気がする。やえとお客の滋味深い交流、全国各地の銘酒とつまみ、日本酒の製造過程の解説に至るまで、幅広い魅力を楽しめる本書は、まさに多種多様な日本酒そのものといえよう。読めば日本酒が飲みたくなる。大切な人に会いたくなる。そんな物語と共に味わう日本酒は、さぞ豊かな芳醇だろう。

文=碧月はる

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