福士蒼汰×松本まりかで映画化。ある介護療養施設で百歳の男が殺される事件から始まる、琵琶湖が舞台のミステリー小説

文芸・カルチャー

更新日:2024/1/24

湖の女たち
湖の女たち』(吉田修一/新潮文庫)

『悪人』『怒り』など、これまでも作品が多く映画化されている吉田修一氏の2020年の作品『湖の女たち』(新潮文庫)が映画化され、2024年初夏に公開が決定しています。福士蒼汰・松本まりかが主演で、2023年11月現在は約30秒の特報のみがアップされている本作の原作をご紹介します。

 舞台は琵琶湖周辺。ある介護療養施設で、百歳の男が殺される。子どもがうまれたばかりの刑事・濱中は、捜査を進める中で介護士・佳代と出会い、急速に仲を深めていく。その事件を取材する記者・池田は、事件で死亡した男の人生をひもとくためにハルビン(旧満州の中心都市)を訪ねる……

 題名にある通り、本作では湖が重要なモチーフになっています。湖には、海のような波がありません。もちろん、風が強いときには湖面も揺れますが、湖面がしんとしていて鏡のようになるときもあります。そこに魚が跳ねたり石を投げ入れたりすると、音や波紋はとても目立ちます。

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 そんな湖というモチーフ、しかも日本最大の湖である琵琶湖のまわりで起こる出来事から、現代の日本社会だけではなく過去から連綿と続く「時代」というものを著者は描こうとしています。

 ダイナミックなように聞こえるその探求は、とても細かい描写によって支えられています。読み解くキーとなるのは「境界線」であると筆者は感じました。

佳代は思わず刑事の姿を探した。水路の伸びる路地を見た。そのときまたガラス窓をコツンと何かが叩いた。すっと動いたのは黒いカメムシだった。カメムシはしばらく窓枠を這い、そのままどこかへ飛んで行く。佳代はごくっと唾を飲み込んだ。

 車の中からガラス窓の外側を這うカメムシを眺める。人間の佳代が、昆虫のカメムシを眺める。一見すると人と人との境界線やコミュニケーションとは何ら関係ない描写が、丹念になされています。

 このような「境界線」の描写がある程度まで蓄積されると、堤防が決壊するように、あるいは静かな湖面に石が投げ入れられるように、時代をも超えるミステリアスな展開が始まっていきます。

 本書の裏表紙のあらすじでは濱中と佳代の関係に関して「インモラル」という言葉が使われていますが、そのある種「ありえない展開」というのは、現代社会もどかしさを象徴しているようにも思えます。

 人の心に湖面のようなものがあるとして、それがどういう状態であるかについて、他者はおろか自分の湖面もなかなか見えない。波紋を起こしたくても、起こせない。では、どうすれば自分・自分たちの湖面、ひいては人生に変化をもたせるか? その探求が本書全体を通じてなされているように筆者は感じました。

湖の夜は、ふいに明ける。
空も湖面も対岸の山の稜線も、なんの境目もなかった黒一色の世界には、静かに寄せる波音だけがあった。ただ、その波打ち際さえ、いったいどこにあるのかも分からない。
そんな黒一色の世界に、まず浮かび上がってくるのが湖面の波だ。
湖面で揺れる波がこの漆黒の世界に初めて生まれる色とも呼べない第一の光となる。波が揺れているから、そこに湖面があることが分かる。

 おそらく著者は本作を通して、「問いかけ」の機会が社会により醸成されることを願っているのでしょう。個々人ごとに異なって見える悩みの中には、共通の「大きな湖」があるのではないか? そんな集合意識・集合記憶を描く著者と、映画版の監督・大森立嗣氏は、『さよなら渓谷』でも一度コラボレーションを行っているということで、再タッグが楽しみな一作です。

文=神保慶政

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