大江健三郎賞受賞作にしてエンタメとしても高得点の哀しく熱いスリ・ノワール
更新日:2012/3/7
主人公は若き天才スリ師。 1日の稼ぎは数十万に上ることもあるが、決してやりすぎず、目立たぬように、狭いアパートでひっそりと孤独に暮らしている。
かつて、仲間を失い、恋人を失って東京を出た彼が、舞い戻ってきたとき、再び悲劇の幕があがる。
物語は、主人公が仲間と行なった大仕事を中心とした過去パートと、東京に戻ってきてからの現在パートが重層的に語られる。過去パートの爆発するような暴力性と対象的に、現代パートでの子どもスリとのふれあいを通して主人公が獲得していく絆の温かさが、その後のさらなる悲劇をいやおうなく予感させて、本当に胸が痛くなるのだ。
随所にちりばめられた、濁り水や、鉄塔といったメタファーがその不安感をさらに盛り上げていく。
リーダビリティを上げるのは不安感や墜落感だけではない。主人公のその天才的なスリ技術への未知の職業への興味と、難しい相手に気づかれずにいかにして掏るかというミステリ的な攻略の興味が同時に描かれている。
そして、高くそびえる黒い塔のように主人公を遠くから近くから脅かす絶対的な悪の存在――この魔手から逃れるために主人公が足掻くさまは、人間の存在の哀しさと、一寸の虫にも五分の魂的な熱い感情をもよおさせて、ラストのカタルシスへと引っ張っていく。
もう大江健三郎賞を獲ってるんだから充分かもしれないけど、もっとミステリ文脈でも語られてもよかった素晴らしき犯罪小説。
「ポケットから財布が出る動きの中でも、最もスムーズな、最適な動きがある」スリのプロフェショナルとしての技術が体温を持ってこと細かに語られる
腐敗した弁当容器の底に溜まった濁り水。「その水は不快で温かいと思った」のは、東京のスリ稼業という古巣に戻ってきた主人公の心情でもある
「犯罪に最も必要なのは、計画だ」そう言って自らの頭脳ですべてを支配しようとする男との出会いが、主人公の運命を狂わせる