匂いフェチの方、必見! 有名ブランドの香水から呼び起こされる情景を描いた短編集

ライフスタイル

2017/6/21

『私が好きなあなたの匂い』(長谷部千彩/河出書房新社)

 映像や写真には写らない「香り」という、れっきとした存在に焦点をあてた『私が好きなあなたの匂い』(長谷部千彩/河出書房新社)は、シャネル、エルメス、バーバリー、イブ・サンローランなど実在の香水をモチーフにした36のストーリーを収めた短編集です。

 本作を読むと、人の感受性に「香り」というエッセンスを与えてくれる嗅覚が、記憶や感触と密接に関連していることがわかります。バレンシアガの香水をテーマにした一編「セントラル・パーク・ウエスト」の冒頭では、ニューヨーク生まれ日本育ちの(日本人の)主人公がこうつぶやきます。

私の一番古い記憶は二歳の誕生日。こたつの上のケーキとロウソクの光。私は東京から二時間ほど行ったところ、海沿いの小さな町で育った。

 この文章自体に香水は登場しませんが、嗅覚はこうしたおぼろげな記憶と相性が良いようです。例えば、塩素っぽい匂いが漂っていると、プールの消毒液を連想して昔を思い出すスイッチが入る方は多いはずです。また、鮭が生まれた川に卵を産みに帰ってこられるのは、生まれた川の匂いを覚えているからだといわれていますが、嗅覚という感覚は生命体全般の記憶に深く関わっているように思えます。

 香水には旅というイメージもあります。空港内のデューティーフリーショップでは町中よりも香水をよくみかけますが、本作のストーリーも日本だけでなく、ニューヨーク・パリ・ローマ・香港など海外の都市を旅します。ゲランの香水からインスピレーションを受けた一編「カクテルが待っている」では、おそらくフランスにいると思われる主人公がこうぼやきます。

それにしても、なんて早いのかしら、そう思わない? ほんの十分、時間が流れただけで、氷は溶けてしまうし、炭酸水はひどくまずい飲み物になる。こういうの飲むのって本当にみじめ。

 香水をつけると(特に私たち日本人は風呂の習慣があるため)、その香りがもつのはおよそ一日です。体温が香水という液体を徐々に気体にさせ、香りが拡散していく……そうした一連の運動が炭酸水の泡とあいまって、ストーリーをより豊かにしてくれています。

 そしてやはり、恋愛というイメージもはずせません。恋人の好きそうな香りやボトルのデザインを選んで香水を贈るというのはもちろんのこと、匂いをかぐという行為は、登場人物たちに親密さや、時に真逆の寂寥感をもたらします。

彼とは二度と会うことはないだろう。ただ、時々思う。あの香りをつけた彼の体の匂いを、一度嗅いでみたかった、と。

 嗅げなかった匂い、という「実現しなかった記憶」。そうした表現が嗅覚を以って可能なのは、季節の匂いなどを私たちが常日頃、無意識の内に嗅覚で感じとっているからでしょう。雨にも匂いがあり、雨が引き立たせる匂いもまた多いです。雨の日は家にこもってしまいがちですが、外に出て雨を楽しむという選択肢もあります。本書を手に、雨の町(あるいは雨が降りそうな町、雨上がりの町)に外出してみてはどうでしょうか。

文=神保慶政