古代から受け継がれてきた中国最凶の呪術「蠱毒」の謎…中国帰りの漢方医が奥義を徹底解説

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公開日:2017/9/5

『中国最凶の呪い 蠱毒』(村上文崇/彩図社)

 日本には、古代中国から伝来した文化が多い。漢字はもちろんだし、「呉」の国から伝来した織物を「呉服(くれはり)」と呼び、それまで着物の襟を左前にしていた貴族たちが中国を手本に右前にするようになったとされる。後に漢字は日本独自の国字が作られ、現在の「中華人民共和国」では多くの和製漢語が使われているし、着物は今や日本の文化として「Kimono」で海外に通じるようになった。それからもうひとつ、日本に根付いた漢方薬もまた進化を続けている。例えば、1151年に「南宋」で編纂された『太平恵民和剤局方』に掲載されている処方「四物湯」を参考として、日本人医師が1953年に「七物降下湯」を開発したのだが、最近では来日した中国人が親への贈り物として購入していくのだとか。

 そんな漢方薬に関する著作を持つある人物が、面白い本を出したという噂を耳にした。それがこの『中国最凶の呪い 蠱毒』(村上文崇/彩図社)であり、著者は東京大学文学部を卒業後に上海中医薬大学を卒業して中国の医師免許を取得したうえ、帰国してからは漢方漫談家の顔を持つという一風変わった経歴を有している。

 怪奇漫画などによって、「蠱毒(こどく)」のことを知った人は多いだろう。私もそうで、毒針や強靭な牙を持つ虫や小動物を狭い容器に閉じ込め、互いに殺し合いをした果てに残った一匹が「蠱(こ)」となり、相手を呪い殺すというイメージがある。しかし中国の古文書を調べた著者の考察によると、蠱は「病名」あるいはその原因となる「病因」を表す文字で、寄生虫や毒虫がその背景にあるのではないかという。また、病気は怨霊からもたらされる霊的なもの、もしくは超自然的な存在ととらえていたのではないかとも述べている。著者が参考にした古文書は当時の国家事業として編纂されたもので、民間人の著した書物と比べると信憑性が高く、先のイメージはそれらの中の『隋書・地理誌』に載っている造蠱の方法だそうだ。

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 国の公式文書とも云える古文書に蠱毒のことが載っているように、蠱術を遣う者への罰則も公式に存在していたという。最も古い記録は漢代のもので、見せしめの公開処刑を意味する「棄市(きし)」が規定されており、遣う者だけでなく教唆した者も罰せられた。また、他の歴史書などには「族」と記されていて、一族が皆殺しの刑に処せられたようだ。国家転覆を狙う大罪と同列に扱われるほど、当時の権力者が蠱術を恐れていたということなのだろう。

 本書には現代中国における蠱毒の噂話や体験談、報道された話なども載っていて興味深い。なにしろ中国共産党の党是は迷信打破であり、宗教活動に対する弾圧問題がたびたび起きている。そして蠱術はというと代々女性が継承し、蠱師は遠方に出かけると幼い女児を養女として引き取り修行をさせるそうだ。このことについて著者は、男児を大事と考え女児を不要とみなす地方における儒教的男尊女卑の観念が関係していることを指摘しており、同時に幼くして養女に出され修行を強要された憐れむべき存在を共同体の中に置くことによる一族の連帯という側面も示唆している。

 この蠱術もまた日本に伝わっているようなのだが、人を害する術であるためか表立った記録といったものが無い。しかし著者によると江戸時代中期の儒学者が著した『紫芝園漫筆(ししえんまんぴつ)』には、「犬蠱(けんこ)」という記述があり、餌を与えずに繋いだ犬を飢えさせて首を切り落とし、その首を祀ることで相手を病気に罹らせたという。実は古代中国の蠱術では、蠱を人間だけでなく動物や植物にも放つことができるものの、狗(いぬ)にだけはできず、蠱師は狗を恐れると伝えられている。どうにも日本は、外国から来た文化を独自に改造するのが得意なようである。

文=清水銀嶺