まだ生きられるのに死を選ぶことができますか?——世界各地の安楽死の現場を取材した1冊

社会

2018/1/23

『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一/小学館)

 日常からずいぶんと「死」が遠くなったように思われる。核家族化で肉親の死に立ち会う機会は減り、そもそも生活環境や医療の発展で人がなかなか死ななくなった。だからといって人に寿命があることに変わりはない。誰にでも死はいつか必ず訪れる。

 日常で死を感じることはほぼ皆無なせいか、自分がどのような命の終わり方を迎えるのか、まったく想像がつかない。私は特定の神を信仰しているわけではないが、それこそまさに神、あるいは大きな自然の法則とでも言い換えられるようなものによって決まるのだろうと思っている。願わくば、苦しみや痛みは最小限であってほしい。

 命の長さは自分では決められない。これは正しい、ただし日本においては。世界にはまだ少数ではあるが生の終わりを自分で決められる国がある。どういうことかといえば、「安楽死」や「尊厳死」が認められている国や地域があるのだ。

 本書『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一/小学館)で著者は、数々の安楽死のケースについて、死に臨む本人、それを施す医者、遺族への取材を行い、時には安楽死の現場に立ち会い、「安楽死」の現状に迫っていく。例えば本書の冒頭は、スイスで行われたある英国人老婦人の安楽死(自殺幇助)の場面から始まる。

 30度ほどリクライニングしたベッドに仰向けになった老婦に、プライシック医師は点滴の針を刺していう。「心の用意ができたら、いつ開けても構いませんよ」点滴にはストッパーのロールがついていて、このロールを開ければ薬がまわって死に至る。老婦はこの状況をよく理解している。これは彼女が望んだことであり、このために安楽死が認められていないイギリスからスイスまでやってきたのだ。

 老婦はわずかに息を吸い込むと、自らの手でロールを開き、そっと目を閉じた。20秒が経過し、枕にのせられていた頭部が右側にコクリと垂れた。こうして、プライシック医師による自殺幇助が終了した。一部始終を見届けた著者は、ほんの数分前まで笑顔でスペイン旅行の思い出を語っていた老婦の顔を覗き込み、「思いとどまるよう、説得すべきだったのではないか。」と自責の念に駆られる。

 スイスでは、「医師が薬物を投与し、患者を死に至らせる」積極的安楽死ではなく、「医師から与えられた致死薬で、患者自らが命を絶つ」自殺幇助が認められている(正確には「違法には当たらない」とされる)。自殺幇助が許可されるには、患者が次の条件を満たしている必要がある。


1)耐えられない痛みがある。
2)回復の見込みがない。
3)明確な意思表示ができる。
4)治療の代替手段がない。

 前述の英国老婦人はドリス・ハーツさん、81歳。癌である。彼女の痛みや苦しみを完全に理解することはできないが、自殺幇助の条件を満たすとはいえ、まだ生きられそうな彼女がなぜ今死を選ぶのか、著者は腑に落ちない。ドリスはいった。「私が満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれない」「これから先、私は苦しんで生きるだけ。幸福なまま逝かせてほしいの」

 取材を続けるうち、著者の心に「死は個人のものなのか」、それとも、「死は集団や社会のものなのか」という問いが芽生えていく。パートナーや子供がいても安楽死を選ぶ個人の意思が尊重されるように「個」で生きる欧米社会に対し、家族や共同体意識によって生かされて生きる日本社会。その中では、生は自分だけのものではないのではないか、との思いに達する。

 高齢化社会が進むにつれ、日本でも安楽死や尊厳死の是非が近い将来問われ始めるかもしれない。本書は安楽死について結論を出しはしないが、多くを考えさせられる。なぜなら、死について考えることは、生や生き方について考えることに翻るからだ。どのような死に方をしたいかは、どのような生き方をしたいか、と同義ではないだろうか。

文=高橋輝実