完璧じゃなくてよくない? 欠陥だらけの私たちを男よりも癒してくるヤバイ小説!

小説・エッセイ

2018/2/9

『完璧じゃない、あたしたち』(王谷 晶/ポプラ社)

 人は誰だって不完全な存在なのよとか、誰にだって悩みやコンプレックスはあるものよとか、外野からいくら言われたってなんの慰めにもならない。いま、私がつらくて苦しくて、欠陥だらけの自分にいやけがさしている。自分の欠陥ひとつひとつが現実をよくないものへと変えている。そう思ってしまうことだけが世の中で唯一の重要事項で、他の人がどうかなんてどうだっていい。そんなことを一度は思ったことのある人にはぜひとも読んでほしい小説が『完璧じゃない、あたしたち』(王谷 晶/ポプラ社)だ。

 23篇の短編から成る本作は、ほんとうに一人の著者が書きあげたものかと疑いたくなるほどバリエーションに飛んでいる。

 1作目「小桜妙子をどう呼べばいい」は、どの一人称で自分を呼んでもしっくりこなくて悩んでいる、上品できまじめな女性が語り手だ。

 2作目「友人スワンプシング」で登場するのは栃木のヤンキーで、親友が人魚に変身してしまい溜池に沈んでいくというシュールなファンタジー。

 3作目「ばばあ日傘」は、元女中だった老婆が語る、御屋敷で起きた愛憎劇の真実について。

 この調子で、テーマも文体も設定もまるで異なる短編が次から次へと紡がれていく。共通しているのはどれも“女同士の物語”であること、そして誰もが欠点をもっている、すなわちタイトルどおり“完璧じゃない”女の子であることだけ。

 だが、なんなのだろうこの小説はと、訝しみながら読み始めているうち、気づけばこの不可思議な世界観にどっぷりはまり込んでいる自分に気がつく。そして “完璧じゃない”彼女たちの姿にどこかほっとし、救いを見出している。そんな、不思議な引力をもった短編集なのである。

 確かに、他人の欠陥なんて、自分にはなんの意味もない。物語に出てくる女の子たちが完璧じゃないからって、自分の不幸が薄まるわけではないし、彼女たちの不幸ぶん、自分の幸せが上乗せされるわけでもない。それでもなぜだろう、短編がひとつずつ重なっていくたび、ありていに言えば生きる勇気のようなものが湧いてくる。

 正直いって彼女たちは、ちょっと、いやだいぶおかしい。「十本目の生娘」は、「なんでもすぐに投げ出しちゃだめ」という母の言葉を忠実に守って、いいものだとはとても思えないセックスに果敢に挑み続けているし、病的なまでに無駄をはぶいた結果、自分の感情を殺し続けている女、未知の食材を夢のなかでリアルに味わう友達のため、ありとあらゆる手段をつかって再現しようとする女など、狂気めいた女性たちが多々登場する。

 だがこれも不思議なことに、狂気と狂気が結びつき、折り重なっていくとそれは、とんでもなく優しくいつくしみにみちた世界に見えてきてしまう。いいよ、きみたちそのままで、完璧じゃなくても欠陥だらけでも生きていていいよ! と強く言いたくなる。その彼女たちへの許しは同時に、読み手である私たち自身への抱擁でもあるのだ。

 と、こむずかしいことを並べ立てても仕方ない。まずは騙されたと思って読んでみてほしい。読後は、この完璧じゃない世界への愛が、ひっそり胸のなかに生まれているはずだから。

文=立花もも