入手困難だった幻の短編集が発売に! 『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン少年も登場

文芸・カルチャー

公開日:2018/7/30

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(J.D.サリンジャー:著、金原瑞人:訳/新潮社)

『ライ麦畑でつかまえて』あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説の題名を聞いたことがある方は多いはずだ。原題“The Catcher in the Rye”、作者はJ.D.サリンジャー。紛れもなく一流作家として世界中で認知されている著者の、入手困難だった短編を集成した『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(J.D.サリンジャー:著、金原瑞人:訳/新潮社)がこの度発売となった。

 本書には、1940年から1945年の間に発表された『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる』含む初期作品8本、そして1965年に発表され、著者最後の作品となった『ハプワース16、1924年』が収録されている。

 サリンジャーファンにとっては、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公・ホールデンの原型を初期作品の中に見ることができるのが、本書の大きな魅力だ。1945年発表の短編『ぼくはちょっとおかしい』で、学校を退学になったホールデン少年はこのように独白する。

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うちに帰ったら、セントラルパークの池は凍っているかな。もしまん中まで凍っていたら、朝、窓からそれをみた人はアイススケートをするかもしれない。池にはカモがいるけど、池が凍りついたら、いったいどこへいくんだろう。そんなことを考えていたけど、先生にはいえなかった。

『ライ麦畑でつかまえて』にもほぼ同じ場面がある。落ちこぼれ少年の素朴な疑問は、大人たちの前に一瞬たりとも姿を現さぬまま消えていくという空しさが表現された一節だ。

 本書を読み進めるとサリンジャーファンでなくても気づけることがある。それは、いかに戦争がサリンジャーに多大な影響(傷跡)を残したかという点だ。著者は映画『プライベート・ライアン』でも衝撃的な形で描かれた、1944年のノルマンディー上陸作戦の際に従軍している。そこでとんでもない「何か」を目の当たりにした経験は、後の作品にも色濃く反映されている。本作の中には1944年以前の作品も含まれており、その前段階で既に「何か」を感じ取っている著者の感性を確認することができる。

 ヘミングウェイも絶賛したという1944年発表の作品『最後の休暇の最後の日』では、ヨーロッパに出征する直前の若者・ベイブが、幼い妹・マティにこのように言う。

だけど、ひとついっておきたいのは―意味があるかどうかわからないけど―自分の中にある最高の自分に恥ずかしくない生き方をしてほしいってこと。たとえば、だれかと約束をしたら、最高の相手と約束をしたなと思われるように心がけてほしい。

 セントラルパークのカモ、日常のなにげない瞬間に最大限の思いやりを尽くすことの素晴らしさを描いた著者は、『ハプワース16、1924年』を最後に、隠遁生活を送るという選択をした。「自分だったかもしれない誰か」を人知れず描き続けていたのだろうか。

 本書は著者の類まれなる想像力によって、情報過多で忙しなく様々な場所を飛び回り、自分の立ち位置がおぼつかない現代人に、「まずは自分を、自分自身の当事者に」と強く意識させてくれる短編集となっている。

文=神保慶政