たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だったら。『マチネの終わりに』が美しい理由とは?

文芸・カルチャー

2018/9/22

『マチネの終わりに』(平野啓一郎/毎日新聞出版)

 人生の幸せを大きく左右するものの1つに、恋愛がある。誰と出会い、恋をして、そのまま2人は添い遂げるのか、それとも別々の未来を歩むのか。この選択を繰り返して私たちは最愛の人を見つける。

 しかし恋愛ほど、ちょっとしたことでもろく崩れてしまう幸せはない。あのときの、あの発言が、あの行動が、2人の心を少しずつすれ違わせてしまう。その発言や行動の裏には、恋愛とは関係ない場所で受けた感情や体調の変化が影響していて、それさえなければ2人の恋がうまくいくはずだったのに。

 まるでそれが運命であるかのように、互いの心が複雑に変化していく……。

『マチネの終わりに』(平野啓一郎/毎日新聞出版)は、天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と国際ジャーナリスト・小峰洋子の2人の恋の行方を追った小説だ。

■たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった

 物語は、デビュー20周年記念として行われた国内外ツアーの最終公演日の終演後、舞台裏で行われたファンや関係者たちとの面会の場面から始まる。

 蒔野は演奏中からずっと彼女の存在が気になっていた。色白で、艶のかかった黒髪の、2分ほど開き残したかのような大きな目をした洋子を、だ。

 関係者の連れとして面会の場に訪れただけであり、アメリカ人のフィアンセがいる洋子だったが、いくつか会話を交わしていよいよ心惹かれた蒔野が、少々強引に打ち上げへと誘った。

 この出会いが、打ち上げで交わされた2人の会話が、彼らの運命を大きく変えることになる。ただ、打ち上げの席で会話をしただけ。たったそれだけで、蒔野と洋子は互いに強く惹かれ、2人だけにしかない特別を感じ合った。このなんでもない夜のひとときを、未来で傷つき、苦しみ、葛藤が押し寄せる度に、2人は何度も思い返した。それほどに互いが通じ合った瞬間だった。

 この日を含めて、2人はたった三度だけしか出会わない。しかし、たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人になる……。この小説は、そんな切ない大人の恋愛を描いた作品だ。

■本作を“美しい”と感じる理由

 この作品のポイントはいくつかある。その1つが、2人を取り巻く複雑な環境だ。

 蒔野は天才クラシックギタリストだが、かつてない不調を感じていた。それを誰かに相談できればよかったが、天才がゆえに孤独に陥っていた。もとより天才にありがちな、誰かからのやっかみや嫉妬、疎ましいまでの称賛、期待され続けるプレッシャー。そんな環境で闘い抜いてきた彼の心が、複雑に苦悩するのは仕方のないことかもしれない。

 一方で洋子も苦悩を抱えていた。蒔野と運命的な出会いを果たすものの、彼女にはアメリカ人のフィアンセがいた。そして彼女は国際ジャーナリストだ。世界中に真実を発信しなければならない。その真実とは、世界で最も過酷な場所の1つ、イラクだ。

 その取材中、彼女は自爆テロに巻き込まれてしまう。目立った外傷を受けなかったものの、その後、洋子はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされた。

 それぞれはまったく恋愛に関係のないことだ。しかしそれが複雑に結びついて、2人の関係を大きく左右する。

 そしてもう1つ、蒔野のマネージャーである三谷早苗の存在もある。三谷は密かに蒔野を愛し、そして洋子への恋心に気づいて嫉妬心を抱いていた。その気持ちが膨れ上がった結果、彼女は取り返しのつかない、子どものような行動に出てしまう。

 どれだけ愛し合った2人であっても、運命という歯車には勝てないのか。重なり合う偶然という悪戯に、互いに疑問を抱き、落胆し、離れ離れになっていく。

 その模様を巧みに描く心理描写が、2人の切ない恋を瑞々しく浮かび上がらせる。

 それでも2人には、たった三度だけ出会った、そこで交わした記憶が深く心に残っていた。どんな状況にあっても頭の片隅に残る互いへの想いが、それほどまでに深い愛が、読者から本作が“美しい”と言わしめているのかもしれない。

■マチネの終わりに

 大人の恋愛とはなんだろう。互いに深入りしない割り切った関係のことだろうか。最愛の人に内緒で、別の誰かと共に背徳感に溺れる様のことだろうか。

 それも1つだろうが、この作品に描かれる恋愛模様こそ、大人の恋愛ではないか。蒔野の、洋子の、互いの言動を慎重に読み取り、理解し、受け入れる。そして蒔野ならば、洋子ならば、どう考え、どう行動するだろう。そんなことを思いながら互いに寄り添おうとする。

 相手に「こうあってほしい」「こういうことをしてほしい」と願い、それを迫る恋愛とは違い、なんだかよそよそしい関係に見えてしまう。しかしその裏には、決して価値観や感情を押しつけたり強制したりしない、互いを尊重し合う深い愛情がある。

 こんな恋愛を、こんな関係を築ける2人がこの世にどれだけいるだろう。

 この作品の結末は、マチネの終わりへ、午後の公演の終わりへと続いていく。最後に、本作から印象的な二文を抜き出したい。2人が初めて出会った日の打ち上げで、蒔野が洋子へと放った言葉だ。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。

 未来を支えているのは過去だ。しかしある未来に辿りついたとき、過去の景色が一変することがある。

 未来を進んでいるようで、過去も変わる。切なくも苦しい恋の結末に、マチネの終わりが待っている。そこで2人は未来を見つめ、過去を変えることになる。

文=いのうえゆきひろ