何でもかんでも「やばい」と言うのは実は哲学的! 哲学で現代語を読み解くと…

文芸・カルチャー

2018/10/29

『試験に出る哲学 「センター試験」で西洋思想に入門する』(斎藤哲也/NHK出版)

 高校時代の勉強といえば、受験勉強や専門技術の習得などばかりで、大人になってみると、学んだことを用いて自分で「考える」ということができていないのではないだろうか。

 倫理の科目は、大学受験であまり採用されていないこともあり、高校での勉強がおろそかになってしまいがちだ。しかし倫理という科目には、わたしたちが社会で生きていくときに自分の頭で考えるための糧となる「哲学」が含まれているから、これをないがしろにしてはもったいない。

 本稿で紹介する『試験に出る哲学 「センター試験」で西洋思想に入門する』(斎藤哲也/NHK出版)は、大学入試センター試験の倫理科目に実際に出題されたものを紹介しながら、哲学の世界に歩みを進めるための良質な入門書である。

■現代はいわば「ヘレニズム的」。その理由は?

 ソクラテス、プラトン、アリストテレスは古代ギリシアの哲学者として、現代においても非常に有名である。ところが、そのあとのヘレニズム期に活躍した哲学者は、それに比べるとマイナーなのではないだろうか。

 だが、あまり知らないからといってないがしろにされるべきものではない。紀元前4世紀頃始まったヘレニズム期というのはグローバル化がすすみ個人主義的な潮流があった期間であり、その時期に生じた哲学も当然この流れをくむものである。このグローバル化や個人主義的な潮流は現代社会にも通じるので、ヘレニズム期に生じた哲学は現代の社会生活における生活信条にも当てはめて考えることができそうだ。

 ヘレニズム期には、キュニコス派、ストア派、エピクロス派、懐疑主義の4つの思潮が現れた。

(1)キュニコス派:虚飾を嫌ってときに冷めた目で現実を見る
(2)ストア派:自然に従ってストイックに生きる
(3)エピクロス派:苦痛を避けて生きることを説く
(4)懐疑主義:自分の五感すら頼りにしない

 いずれも個人の内面的な幸福を追求するという姿勢が共通している。これらの思想のように、現代のわたしたちもどこか内面の幸福追求や心の平安を求める姿勢を強めてきているのではないだろうか。

■「やばい」を哲学的に探究してみるとやばかった!?

 ぐっと現代に近づいて20世紀にはいると、英米圏では「分析哲学」が流行した。分析哲学での分析の対象は主に言語であった。そして、この分野の哲学において重要な役割を果たした哲学者がオーストリア出身のウィトゲンシュタイン(ヴィトゲンシュタイン)だ。

 まず初期の研究で彼は、文(命題)は現実世界の現象を写した像であるとする「写像理論」を唱えた。たとえば、「交差点付近でミッション車がエンストした」という文は、実際に起こった事柄を写したものであるということである。

 ところが、これでは「おはよう」などの日常的表現が理論の蚊帳の外におかれてしまう。こうした不備に気づいたウィトゲンシュタインは、研究後期には「言語ゲーム」という新しい理論を提唱した。

 たとえば「やばい」という言葉を考えてみると、その言葉は使われる状況によって「すごい」「まずい」「あぶない」のように意味が多様に変化する。これを、野球やサッカーなど同じゲーム競技というくくりの中であっても、ボール(道具)の使い方はそれぞれ違うということになぞらえて、「言語ゲーム」と名付けたのである。

 こうして彼は、それまでものごとの「本質」が重要視されてきた哲学の世界で、ものごとの「類似」を重視する考え方へとパラダイムシフトを起こしたのである。

 多様性が重要視され、ある意味で自分の自由に生きられる社会が出来上がりつつある現代では、すべての人々をもれなく統合するような考え方は廃れつつあるのかもしれない。個人の自由が尊重されるのは好ましいことであるが、自分の信条に従って生きている人というのが少なくなってきているようにも思われる。

 そういった思想・信条をもちたいと考えている人があるならば、本書を足がかりに自分の思想を組み立ててみるのもひとつの手だ。

文=ムラカミ ハヤト