ちょっとしたことにイライラ、他人と比べちゃう…「なんとなくしんどい」から脱出するコツ

暮らし

公開日:2018/11/7

『比べず、とらわれず、生きる』(枡野俊明/PHP研究所)

 おだやかな日々というのは、多くの人が憧れるものだろう。平和なはずの現代ですら、人は過去の失敗に苦しめられたり、人間関係などいろんな不安に悩まされたりしている。精神的な意味で本当におだやかな日々を送れている人は、そういう意味ではごくわずかかもしれない。そんな日々を手に入れるためのヒントを禅の考え方をもとに紹介したのが『比べず、とらわれず、生きる』(枡野俊明/PHP研究所)だ。

 どんな人にも、何かしらの心配事はある。これは生きている限りどうしようもないものだ。だからこそ、悩みや心配事に対しては根絶ではなく付き合い方を考えることが大事になってくる。禅には「一切唯心造」という言葉がある。これは、すべてのものは自分の心が生み出しているもの、という意味だ。考えてみれば、不安には実体がない。

「もしもこうなったらどうしよう」と考えているとき、その不安に思っている未来はまだ現実にはなっていないことがほとんどなのではないだろうか。万が一「こうなってしまったら」と考えていた不安が的中してしまっても、そのときどうするかはそのときの自分にしか決められない。前もってあれこれ考えておいた方がいいじゃないか、と用意周到な人は考えるかもしれないが、状況というのは刻一刻と変わっていくものだ。前段階で何らかの対策を考えていても、いざそのときになると状況が変わって何の役にも立たなくなっているかもしれない。想定外の事態が起きる可能性は常にあるのだ。それなら、悩んでいる時間が長い分、前もって不安に思っている方が損をしているのではないか、という考え方もありなのである。すべての不安は自分の心が作り出しているものと考えれば、立ち向かいようがない巨悪のように思えていた不安がうっすらやわらいでいくのを感じられるかもしれない。

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 社会の中で生きる以上、人間関係はどんな形であれついてまわる。人と人との付き合いは、あらゆる状況において悩みの種となりうるものだ。親子はまだ例外的としても、すべての人間関係には「出会ったとき」というものがある。そして、出会った当初からお互いのことを一から十まで理解していることはない。出会った後から、お互いへの理解を少しずつ深めていくのだ。そのときにもっとも大事なものは何かといえば、それは言葉であると本書は語る。言葉づかいからその人の人となりをある程度知ることができるし、言葉づかいという礼儀を守ることはその相手との関係を大事にしたいという気持ちを表すことでもあるのだ。

 禅には「愛語」という言葉がある。これは、日常的に接する相手には丁寧な言葉でやり取りをしようという教えだ。とげのある言葉を交わしていると、どうしても人間関係というものはぎくしゃくしてしまう。中には「本当に仲のいい相手にはやや乱暴な言葉を使ってもいいじゃないか」という意見もあるかもしれない。確かに、家族や親友といった本当に仲のいい相手なら少しのとげで関係が壊れたりはしないだろう。しかし、それはやはり互いの間の信頼が前提となってこそだ。つまり、とげの中にもやさしさが感じられたり「本当はこう思ってるんだ」と相手が思えるだけの体験をそれまでに積んでいたりしないと、この前提は成り立たないのだ。自分の本音を飾るのがとげのついた言葉だけだと、そのとげはやはり相手に刺さり続ける。そして、いずれ限界を迎えた相手は去っていくことだろう。それならば、どこかひとつでも丁寧さを前面に出しておいた方がいい。言葉づかいを大事にすることは、同時にそれを向ける相手を大事にすることでもあるのだ。

 最後に、ときおり耳にする「切磋琢磨」という言葉について少し述べよう。これも実は禅由来の言葉である。どれだけきれいな宝石になる可能性を秘めた石でも、磨かなければ石のままだ。それと同じで、人間も他の人と関わり合ってこそ成長できるという意味である。人と関わる際、もちろんトラブルが起きる可能性はあるし、嫌な思いもするだろう。しかし、意志と感情のある人間同士が関わり合うのだから、ストレスや衝突はむしろあって当たり前なのだ。もしもその切磋琢磨のしすぎでヒビが入ってしまうようなことがあれば、それをやさしく磨いて直してくれる人を探そう。世間は広く、いろいろな人がいる。切磋琢磨とは、激しいぶつかり合いだけでなく、やさしい助け合いも含んだすべての成長の機会なのだ。

文=柚兎