好き嫌いがキッパリ分れる「パクチー」は、なぜ日本で流行した?

食・料理

更新日:2018/11/27

『パクチーとアジア飯』(阿古真理/中央公論新社)

 パクチー(香菜・シャンツァイ)は、カメムシ草と呼ばれていたほどの独特の強い香りから、好き嫌いがはっきり分かれる食べ物だが、私は大好きだ。かれこれ20数年の付き合いになる。どれぐらい好きかというと、タイで種を買い、自宅のベランダで栽培していたぐらい。たまたま種をまいた時期がよかったのだろう、順調に発芽して根を張り、すくすくと成長した。そして収穫後は、葉・茎・根の全てを余すところなくおいしく頂いた。2016年のパクチーブームのおかげで、現在では、ほぼ全国のスーパーに国産のパクチーや、パクチーを用いた加工食品が並んでおり、いつでもその味と香りを楽しめる。

 そんなパクチーは、どのようにブームとなり日本で広がっていったのだろうか。その答えは、本稿で紹介する『パクチーとアジア飯』(阿古真理/中央公論新社)の中にある。

■パクチーブームを支えた人たちの、プロジェクトX

 2016年、日本に爆発的なパクチーブームが到来した。それまで、どちらかというとマニアックな食材であったパクチーが、一気にメジャー化し、広まったのだ。

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 仕掛人たちは、大きく2つの側面からブームを支えた。ひとつは、パクチーの魅力を発信する伝道師のような人物や、メディアといった「伝え手」。もうひとつは、パクチーの生産に力を入れてきた国内の農家と、長年取り扱ってきた食品会社といった「作り手」だ。

「伝え手」の代表格は、日本パクチー“狂”会会長の佐谷恭氏。50か国を超える海外訪問を通じて出会ったパクチーの魅力を伝えたいという願いから、脱サラして起業。2007年に東京都内でパクチー専門店「パクチーハウス」を開業した。

 それまでのパクチーを用いた料理にとらわれない、自由な発想から生まれたオリジナルメニューと、“交流する飲食店”というコンセプトに基づいた、相席推奨というユニークな営業形態などが話題を呼び、パクチーという食材が広く認知されるために大きく貢献した。

「作り手」として最近存在感を増しているのは、岡山県のパクチー農家だ。もともと黄ニラの生産者だったという植田氏は、2000年からパクチー栽培を始めたが、そのチャレンジはまずは同氏自身が強烈な香りに慣れることから始まったのだという。

 その後も、草取りなどの手入れの大変さや、出荷しても輸送中に傷んでしまうといった品質トラブルなど、数々の試練に向き合うことになる。そのひとつひとつの難関を、「パクチーを日本の野菜にしたい」という想いから乗り越え、徐々に生産と供給を安定させていった。今では栽培農家仲間も増え、植田氏は「岡山パクチー(岡パク)大使」として、パクチーの啓蒙活動にも忙しい日々を送っている。

■パクチーの流行からアジアや世界とのつながりを俯瞰する

 本書では、2016年のパクチーブームから遡り、日本でブームとなり、そして定着してきたさまざまな「アジア飯」(タイ料理、ベトナム料理、インド料理、中国料理)の歴史と今が、数多くの文献や関係者インタビュー、そして著者が取材して回った実地体験により、日本国内外の両方の視点から説かれている。どの章もわかりやすく、かつ読みごたえがあるので、アジア飯や海外旅行が好きな人だけではなく、日本をはじめとする歴史に関心がある人にもたまらない内容だろう(参考文献の詳しいリストが巻末にあるのも、役に立ちそうだ)。

 本書では日本人の一過性ブームを追うだけでなく、海外から日本に移住し、アジア飯を持ち込んだ人たちの様子も丹念に取材されている。コンピューターをめぐる2000年問題対策のためにIT人材確保が急務となり、急遽集められたインド人など、外国人の日本移住のきっかけはさまざまだ。最初は、宗教や生活習慣の違いなどからくる戸惑いがありながらも、日本に根を張り、コミュニティを形成し、日本社会の一員となっていく様子からは、今後も増加していくであろう外国人労働者を受け入れていくためのヒントも得られそうだ。

 日本人は歴史の中で、外国から入ってくるものを受け入れ、アレンジしながら、自分たちの文化に巧みに取り入れてきた。本書はそれを、日本におけるアジア食文化という切り口で鮮やかに示してくれる、盛りだくさんの1冊だ。読めば、あなたの食欲や食についての探究心が刺激されるのは間違いないだろう。

文=水野さちえ