『探偵!ナイトスクープ』で実現しなかった企画が書籍化! 庶民の言葉の歴史をひもといた『全国マン・チン分布考』

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公開日:2018/12/27

『全国マン・チン分布考(インターナショナル新書)』(松本修/集英社インターナショナル)

 口にするのは憚られる。しかし耳にした瞬間、胸のざわつきを抑えられなくなる。多くの人が学生時代に友人から、辞書の「その部分」にマーカーを引かれて恥ずかしい思いをする。『全国マン・チン分布考(インターナショナル新書)』(松本修/集英社インターナショナル)はそんな“それ”、すなわち女陰と男根が全国でどう呼ばれ、どんな語源を持ち歴史の中で変遷してきたかを大々的に調査した本だ。

 こんなしょうもない、もとい今まで埋もれていたテーマを大真面目に取り上げたのは、『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』(太田出版)で、アホとバカの境界線を探り当てた松本修さんだ。松本さんはかつて『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)のプロデューサーとして、数々のバカげた調査とその結果を世に送り出してきた。このマンとチンの全国方言分布図も、番組がきっかけで生まれている。

 1995年、東京で働く京都出身の女性からこんな投稿が寄せられた。

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 母から送られた京都の饅頭を会社で配った際、ふと見ると自分の分がなくなっていた。そこで、

「わたしのおまん、どこに行ったか知りませんか?」

 と言ったら会社中が大騒ぎ。京都では誰もが饅頭のことを「おまん」と言い、それは丁寧で美しい言葉なのになぜ笑われるのか。さらに飛騨高山のマスコット「さるぼぼ」を見て

「あ、さるぼぼちゃんや」

 と言ったら、鹿児島出身の当時の彼が顔を真っ赤にした。マンとチンにまつわる言葉は、どの地域でどのような使い方がタブーなのか。京都人が「変態」と思われないように調べてほしい。

 テレビでは実現することが叶わなかったこの依頼を、松本さんは探偵を派遣せず自身で調べ、20年以上の時を経て正面から答えることにした。

 確かに関東で「おまん」と聞くと、誰もがカ行最後の文字を加えたものを想像してしまう。しかし京都では「おまん」は当たり前に使われている。自分の話で言えば大学生の頃、宮崎出身の同級生が「うちの田舎でボボ・ブラジルは口に出せない」と言っていた。秋田出身の友人が「うちの田舎じゃ、フェラガモって聞いたら全員大笑いだ」と言ったこともある。宮崎でボボは女陰、東北の日本海側から北海道にかけてカモ(ガモ)は男根の名称だからだ。このように地域によって女陰も男根も呼び名が違っているが、この本によると方言の周辺分布は「波紋」にたとえられ、中心点となすのは京の都だという。

方言の多くは、地方で独自に生じたものではなく、京の都の、はるか昔の遺風を受け継いでいるのです。したがって、京都よりも東にある方言は、原則として西にもあって、古い言葉ほど時間をかけて遠くまで旅するわけですから、東北の北部と、九州の西南部との方言は、まったく同じものである、ということが少なくないのです。

 その言葉を裏付けるように同書によれば、彼氏を赤面させた「ボボ」は九州だけではなく、少ないながらも関東や東北地方でも使われているそうだ。

 では語源は一体何なのか。「まん〇」を非常に端折って説明するとまさに饅頭そのもので、当時高級品だった福々しい饅頭に子供の陰部がたとえられたことから来ていると、松本さんは言う。

 他にも女陰を示す言葉や、男根を表す言葉についての考察が続くが、割合としては圧倒的に女陰に関するものが多い。それはメディアにおいて、かつてビートたけしが『北野ファンクラブ』という番組で連発していたように「ちんこ」はセーフだが、「まん〇」は一発アウトということが関係していると思われる(ダ・ヴィンチニュースですら文字化すると干されかねないため、伏字にする忖度が働いてしまう)。

 しかし松本さんは言う。

女陰語は汚い言葉である。どんなに顔や身体が魅力あふれる女性であったとしても、その女陰は、醜く、不潔で、卑猥である。男たちによって、女性たちはそんな、あからさまな差別を受けてきました。女性たちも、ずっとそう信じ込まされてきました。

日本の言葉の歴史を子細に訪ねると、(中略)女性の陰部が愛らしく、かわいらしく、いとおしいものであることを、主張し続けてきた歴史であることが分かったのです。

 女陰の由来を調べ続けてきた結果、いずれも慈しみ溢れる由来を持っていることがわかった。なのに現代では人前で言ってはいけない言葉に成り下がったことを、松本さんは嘆くと同時に疑問を呈し続ける。

 女陰はいやらしいものでも汚れたものでもなく、愛らしく神々しい、とても大事なもの。そう訴え続ける松本さんは結びの章でついに、女陰への愛と畏敬の念が恐ろしいほど伝わる歌を開陳する。なんでも校了前に読んだ友人の1人が、

「ちょっと混濁した狂気の世界に入り込んだような感じを受けました」

 と述べたそうだが、まさにその通りの狂気に満ち満ちた歌詞でややゾッとする。しかし同時に、広島大学教授で神学者の辻学氏が同書に寄せた

女性という性を(とりわけ西洋の影響を受けた近代以降の我々が)貶めてきたことへの批判デモあり、女陰を讃える歌は、女性を讃える歌、ひいては「性」を大らかに受け止め、「性」と共に生きてきた日本人への伝統の賛歌にもなっているように思いました。

 という言葉にも深く頷いてしまう。読んでいることを周りに知られたら恥ずかしいと最初は思っていたのに、今はなぜか、自分が女性であることを誇りたい思いに駆られている。そんな奇妙な読後感が味わえた。

 具体的な内容は自分で確かめてほしいが、中学生的な「エロいことが書いてありそう」という気持ちで手に取ると、おそらく完読は難しい。この本はエッチなサブカル本ではない。言語学、歴史学の主流研究ではこれまで掬い上げられることのなかった「庶民の言葉の歴史」を、女陰と男根を通して学ぶことができる「在野の学術書」でもあるのだ。

 ちなみに京から遠く離れた我が出身地での「あれ」の呼び名は、掲載されているものと少し違っている。増補版や新版の発行が決まった際は、どうか全ての市町村の人は松本さんに、それぞれの呼び名を伝えてほしい。全ての地域の人がともに編むことで、この本は庶民の歴史に欠かせない「日本の言葉遺産」になっていくはずだから。

文=玖保樹 鈴