「じゅうげき」で兄は死んだ――6歳児の視点で描く、銃乱射事件の傷

社会

2019/2/1

『おやすみの歌が消えて』(リアノン・ネイヴィン:著、越前敏弥:翻訳/集英社)

 幼い子どもを主人公にしたシリアスな小説で、読者が違和感を覚えることが多いのは、語り口があまりにも大人びてしまっているからである。子どもが考えるはずもない政治性を主張し始めたり、性格が完璧すぎたりして「小さな大人」を見せられている感覚に陥ってしまう。

 その点、『おやすみの歌が消えて』(リアノン・ネイヴィン:著、越前敏弥:翻訳/集英社)は、惨劇に巻き込まれた家族の物語を無垢な6歳児の視点で描き出すことに成功している。アメリカの銃乱射事件を題材にしながら、政府や社会についての意見は読者に委ね、あくまで子どもの心象が描かれていくのだ。そして、どんな大きな事件でも、大切にされるべきなのは関係者の気持ちなのだという当然のことに立ち返らせてくれる。

 6歳児のザックは両親と9歳の兄・アンディと暮らす普通の小学生だ。アンディは意地悪な兄だったが、時折ザックに優しくもしてくれた。4人はどこにでもいる、幸せで平和な家族だった。ところが、日常は突然終わりを告げる。ザックたちの通う学校で「じゅうげき事件」が起こり、アンディが犠牲になってしまったのだ。

 悲しみに暮れる父・ジムは仕事に没頭して事件を忘れようとする。一方、母のメリッサは犯人がどうしても許せない。しかも、犯人は警官に射殺されたため、怒りをぶつける相手がいなくなってしまった。そこで、メリッサは犠牲者遺族たちとともに、犯人の両親を訴える準備を進めていく。メディアのインタビューに答え、ミーティングを重ねるメリッサは、ザックにかまわなくなっていった。

 ジムとメリッサにとって、息子を失った事実は受け入れがたいものだった。だから自分の気持ちから目を背け、家庭の外に逃げるしかない。そして、ザックは孤独を募らせていく。事件が起きてからジムもメリッサも、幼いザックに子守唄を歌ってあげることがなくなった。以前のザックが聴いていたのは、「ブラザー・ジョン」(邦訳「グーチョキパーで何作ろう」)の愛情に満ちた替え歌である。

ザカリー・テイラー
ザカリー・テイラー
大すきよ
大すきよ
すてきなぼうや
いつでもすきよ
ずーっとね
ずーっとね

 悲しみと怒りが大きすぎて、両親は今いるザックを気にしている余裕がなくなってしまった。そのうえ、お互いの行動が気に入らず、家族は崩壊しそうになる。しかし、ザックだけが子どもなりの方法でアンディを思い出し、寂しさと向き合っていく。ザックはアンディのクロゼットを「ひみつ基地」にする。そうすると、アンディが一緒にいるような気分になれたからだ。天国のアンディに話しかけたり、本を読んだりしてザックは少しずつ心を整理していく。

 中でも、ザックが自分の気持ちを紙で表そうとするエピソードが印象的だ。ザックは赤い紙を「はずかしさ」、灰色を「きょうふ」などと決め、ひみつ基地の壁に貼っていく。いくつもの紙が貼られた壁は、ザックの気持ちそのものだ。そして、きっと両親もそうに違いないのだろう。ただ、ザックのようにまっすぐ喪失感を認められないので、極端なやり方にすがりつくしかないのである。やがて、ザックは大好きな児童文学のストーリーにしたがって、「幸せのひけつ」を実践しようとする。それが、家族を結びつける方法だと信じて。

 本書はアメリカで問題になった実在の事件をモデルにしているものの、社会派小説とは言い切れない。確かなのは、「どうしようもない悲しみを乗り越えられるのか」という問いかけについての本だということだ。ただ、そもそも消えない悲しみも人生にはある。大きな惨劇の後で、すべてが元通りになることは不可能だろう。ならば、悲しみも人生の一部として抱きしめていくしかない。それが、去ってしまった人々とともに生きるということでもある。なお、あえて小学校低学年レベルの漢字のみを使用した翻訳も、作品の主題を反映していて素晴らしい。

文=石塚就一