妻が乳ガンで5年生存率10%以下…夫の深い愛情が生んだ“奇跡の名店”『蒲田 初音鮨物語』

暮らし

2019/2/5

『蒲田 初音鮨物語』(本田雅一/KADOKAWA)

 東京都大田区の蒲田駅から外れた場所に、ある鮨屋がある。初音鮨だ。その人気ぶりはすさまじく、2019年はすでに予約でいっぱい。2020年の予約を2020年の初旬から受け付けるようだが、受付開始から1週間程度で満席になることが予想されている。

 では、どれほどの鮨屋なのかといえば、完全予約制でお品書きは「おまかせコース」のみ。鮨屋なのに「17時スタート」と「20時スタート」の二部制コースしか選択肢がない、超異例の営業形態を採用している。しかしその人気は白熱するばかりで、お客満足度も天井知らず。

 なぜ初音鮨はこれだけの人気を誇るのか。

 その秘密は、『蒲田 初音鮨物語』(本田雅一/KADOKAWA)に記されていた。本書は、超人気鮨屋「初音鮨」が成功するまでの、親方である中治勝さんと、妻であり女将のみえ子さんが歩んだ“軌跡”をノンフィクションで伝える1冊だ。

 本書を読んだ人きっとは胸を震わせることになる。ひとりの男が、潰れかけの初音鮨で生まれ、銀座の高級和食店で腕を磨き、妻と出会い、そこから始まる苦難の連続。不器用な男がひとつのことにこだわり続けた結果、大切なものを失いそうになり、すべてを投げ捨てることで見つけられた本当の幸せ。何度も光を見失いそうになりながらも困難を乗り越え、愚直に鮨を、妻を愛し続けたからこそ手に入れた“奇跡の名店”として名をはせる“今”があること。

 初音鮨を営む夫婦には、想像もつかない濃密な過去があった。そのわずかな時間を、本書より切り取ってご紹介したい。

■初音鮨の再建の矢先に襲った妻の乳ガン

 今でこそ世界中から予約が殺到し、親方が握る鮨に客が喜びと驚きの声をあげる初音鮨だが、これだけ人気店になったのはごく最近の話だ。一時は廃業寸前まで追い込まれ、親方の中治勝さんとみえ子さんが歩んだ苦難の道のりをすべて知る人は少ない。

 その中でも特筆してご紹介したいのが、みえ子さんがガンになってしまったときのエピソードだ。

 勝さんの曽祖父が創業し、明治時代から続く初音鮨。はじめはお客に恵まれ華やいだが、父親の代から目に見えて傾き始め、いよいよ潰れそうになった。そのとき跡を継いだのが、高級和食店で修業を重ね料理人として将来有望だった勝さん。そして一緒に後をついてきたのが、妻のみえ子さんだった。

 勝さんとみえ子さんの出会いや結婚までの流れは実にドラマチックで、詳細を本書に譲るのが実に惜しいのだが、簡単に説明したい。初音鮨を継ぐ前、勝さんは高級和食店の中核を担うポジションを捨ててまで潰れかけの店を継ぐ決断をしたばかりか、その決断をみえ子さんに一切相談していなかった。

 そもそもふたりが結婚した経緯も、勝さんはみえ子さんに分かりやすいプロポーズを一切しておらず、というよりみえ子さんは勝さんと“付き合っている”という感覚もなく、雰囲気の流れるままに一緒になった。そしてそんな風変わりで行動力にあふれる勝さんを、みえ子さんは次第に愛するようになる。

 初音鮨を継いでからというもの、勝さんは人間の限界にチャレンジするように働いた。営業のための仕入れや仕込み、ランチ営業、鮨の出前、夜営業、弟子の育成…。睡眠時間はわずか4時間という極限の中で、文字通り身を粉にして働いた。体を壊し「ラムゼイ・ハント症候群」を患って寝込む時期もあったが、それでも潰れかけの初音鮨に光明が少しずつ見え始めた頃だった。

 妻であり女将であるみえ子さんが乳ガンに襲われ、余命5年の宣告を受ける。このとき勝さんは自身が何を見て、何を見ていなかったのか思い知らされることになる。

■最高の鮨を握ることが最高の愛情表現

 人間の時間は有限だ。ひとつのことに情熱を注げば、何かを手に入れられるかもしれない。しかし同時に何かを失っていることも気づかなければならない。

 勝さんは初音鮨の立て直しにあふれんばかりの情熱を注いだ。命を削って再建を目指し、後ろについてきてくれたみえ子さんにも厳しい一面を毎日のように見せた。金銭的に苦しい時期が続いたので、初音鮨の仕事に加えて内職もした。少ない休みの日こそ、家族で食事を楽しみ一緒に笑い合う幸せな時間を過ごしたが、己の野心のためにみえ子さんに多くの苦労を背負わせてしまった。

 そのおかげで初音鮨が再び華やぐ希望の光が差した一方、その代償なのか、最愛の妻が乳ガンに、それもかなり進行した状態になっていた。そこで勝さんはふと気づく。

 みえ子さんが何を求めているのか、どんなことが好きなのか、思い浮かべることのできない自分がいたのだ。初音鮨ばかり見ていたせいで、勝さんはみえ子さんのことを何も知らなかった。何もしてあげられていなかった。

俺がいたばっかりに、こいつは若くして命を失うかもしれない。
本当は俺と出会わなかったほうが、元々が明るい性格のみえ子は、今頃幸せだったんじゃないだろうか。

 強烈な自責の念にかられた勝さん。生まれ変わったとしても、またみえ子と結婚したい。それほど愛する最愛の妻が、もしかすると自分のせいで命を失うかもしれない。目の前が真っ暗になるほど後悔に苛んだ勝さんは、ある決断を下す。

 初音鮨の再建という野望を捨てたのだ。今までは自分のために生きてきた。だからこれからはみえ子さんの夢を叶えるために生きよう。乳ガンから逃れ、ガンが体から消滅した状態を表す“寛かい”が訪れる日を目指して、みえ子さんのために時間を使いたい。

 そう決めると、勝さんの人生観は変わった。これからはみえ子さんのために生きるのだから、初音鮨をこれ以上大きくする必要はない。誰かに跡を継がせる必要はない。儲けようと死に物狂いで働く必要はない。

 けれども2人は初音鮨を、お客に鮨を提供する時間を愛していた。勝さんがもっとも勝さんらしく、みえ子さんがもっともみえ子さんらしくなれる瞬間は、初音鮨の親方であり女将だった。みえ子さんが乳ガンになって2人が気づいたもっとも重要なことだ。そこで勝さんはこんな決断も下す。

「今日死んでも後悔しないように、今日こそ最高の鮨を出そう。みえ子に、最高の鮨を出す姿を、これが最後だと思って見せていこう」

 みえ子さんの生命力が最高になる初音鮨で最高の鮨を握ることこそ、最高の愛情表現になる。勝さんはそう信じた。

 そこからだった。初音鮨の親方の出す鮨は、常識を超えた逸品であり、“クレイジー”なまでのパフォーマンスと満足感をお客に与える。そんな評判が広まり、やがて初音鮨が予約のとれない超人気鮨店になっていく。

 本書は、勝さんとみえ子さんが初音鮨を通して歩んだ軌跡をノンフィクションでつづる1冊だ。この中に記されているのは、2人の濃密な人生と、信頼関係で築かれた深い夫婦愛。それが「奇跡の名店」という結果になって表れた。

 鮨のように繊細で深い味わいの物語が、東京の蒲田でひっそりと流れている。

文=いのうえゆきひろ