「私は1億5千万円さんと呼ばれていました」心臓移植に翻弄されたある女性の一生

文芸・カルチャー

2019/5/3

『心音』(乾ルカ/光文社)

 自分の命にはどれほどの価値があるのだろう…。日常の中で、ふとそんな想いに駆られた経験は誰にでもあるはず。心が疲れているときには、特にそう思い悩んでしまう。しかし、もし本当に自分の命の“値段”を知ってしまったら、私たちはどうもがきながら生きるのだろうか。『心音』(乾ルカ/光文社)を手に取ると、そう考えさせられ、命の価値について考えたくなるはずだ。

■心臓手術にかかった高額費用で「1億5千万円さん」と呼ばれることに…

 本書の主人公・城石明音は、拡張型心筋症。彼女を助けるために必要だったお金は“1億5千万円”。両親は地道な募金活動やテレビなどメディアの力を借りながら手術のための渡米費を集めた。明音は8歳で渡米して心臓移植手術を受け、命をつなぐことができたのだ。しかし、彼女の本当の苦しみは、ここから始まる…。

 物語は視点となる人物を変えながら、明音の成長に伴って進んでいく。同級生や教師、恋人などが語る明音の一生に共通して描かれているのは、周囲が明音に向ける偏見や過剰な優しさだ。

 生まれながらにしてハンディキャップを背負ってきたという理由だけで、明音は同級生からいじめられたり、同じ病気で娘を亡くした母親から恨まれたりする。1億5千万円という大金と引き換えに得た命。そのことが、周囲の黒い好奇心を刺激し、人の心に闇を生み出すのだ。

“『1億5千万円さんへ 命はお金で買えることを教えてくれてありがとう』”
“「あなたはまるで、人の死を自分の幸福に変えて生きているようだ」”

 なんの非もない明音は、周囲からどれだけ辛辣な言葉を浴びせられても、明るく笑う。自分は善意で生かされた身だから、と口にしながら。

 そんな彼女が物語のラストで語る自分の人生に、私たちは「人が人として生きていくことの難しさ」を見るだろう。嫌われ慣れ、恨まれ慣れてきたひとりの女性が辿ってきた涙に触れると、普通のままで生きているという奇跡的な幸福が、改めて身に染みるはずだ。

■善意で生かされた命はどう幸せになればいいのか?

 拡張型心筋症という言葉は、医療ドラマの中で使われるかもしれないが、身近で意識することは少ない。手術費が高額になるため、寄付金を募る支援団体には賛否両論が寄せられたり、両親や当人に心ない言葉が浴びせられたりすることもあるという。

 そして、無事に命が助かったとしても、作中で人々が明音に向けたような“過剰な善意”に苦しめられることもある。「寄付してくれた人のためにも、幸せにならないとね」と、それが当たり前であるかのように告げる。だが、善意によって生きる機会を得た者も、その誰かの恩恵に応えるだけでなく、幸せになってもいいのではないかと筆者は思う。

 筆者自身、単心室単心房という障害がある。手術で大量の輸血が必要となったときには、自分と一致する血液を予め確保するため周囲の人たちの善意に助けられた身だ。実費なら間違いなく高額な手術費も、障害者という立場であるからこそ“制度”という、周囲の人たちの善意で賄ってもらえた。

 しかし、手術後に家族や病院のスタッフ、教師などありとあらゆる人たちから「同じ病気でも助からなかった子がいるから、その子や助けてくれた人のためにも幸せにならないとね」と言われ、そのたびに言葉にできない苦しさを味わった。周囲から「恵まれた子」というレッテルを貼られ、「幸せになること」を強要されるたび、生きづらいと感じるようになった。

 善意で助けられたとしても、その後の人生が幸福であるとは限らない。健常者と同じように、死にたくなるほど辛い日もあれば、救われたことすら恨む日もあった。そんなことを何回も迎えてきたからこそ、明音の言葉は心に染み入った。

“この心臓がある限り、私の苦しみは無くならない。辛いばかりの人生を生きることに、なんの意味があるのか。”
“辛いとき、私を慰めてくれたのは、生きる先にある希望や、私にしか成し得ない役目、使命感ではありません。そんなものは一つだって見えなかった。静寂が欲しかった。静けさが慰めでした。胸の中の音が消え去るときだけが、私を救えるから。”

 命の形は人によって違うように思える。だからこそ、明音のように善意で生かされた命をどう紡いでいけばいいのかと悩み、“正しい命の活かし方”を探し続けてしまう。

 本書は、命の意味やその活かし方を考えさせてくれる1冊。どれだけ憂鬱に思える日常にも当たり前のことは何ひとつなく、数えきれない奇跡が詰まっているのだと再確認させてくれる。そして、明音と同じような想いを抱えている方にとっては、自分の幸せを探す一歩にもなるはず。

 どんな形でつなげられた命であれ、自分が納得できるよう自由に扱っていけばいい。1億5千万円の命も健康体の命も、すべて大切なひとつの命なのだから。

文=古川諭香