パンティと性器管理、男の下着フェチ、女のナルシシズム… スカートの下の劇場には何がある?

社会

公開日:2019/5/30

『スカートの下の劇場: ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(上野千鶴子/河出書房新社)

『スカートの下の劇場: ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(上野千鶴子/河出書房新社)という本がある。1989年(平成年)8月に刊行され、またたく間にベストセラーとなり、そのまま平成を駆け抜けた。本稿で紹介するのは1992年に文庫化され、今年5月に新装版となったものだ。

「パンティはどう進化してきたのか」「なぜ性器を隠すのか」といったパンティにまつわるそもそもの疑問から、「人はどうしてパンティにこだわるのか」「男女のパンティ観の違い」などなど、“セクシュアリティ”の本質を下着の歴史を通して描いたものだ。

「人はなぜ性器を覆うのか」という問いにおいて著者は「ニューギニア高地人のペニスケース」を思い起こすという。彼らは特別に加工したひょうたんでペニスを覆い、その先端を腰紐で固定する。その姿で闘い、耕作し、ダンスをする。その目的は、自前の性器よりももっと象徴的な代替物を使うことで誇示するためだという。「彼らは、あらわすために隠す」と著者は言う。

advertisement

 性器を覆う最小限の入れものは、隠すと同時にあらわす。パンティには、その両極の相反する志向が潜在しているという。女のパンティに対する男のファンタジーは、“隠されたもの”への想像をかきたてるところにある。現実より想像の方が豊か──下着フェチの男はその“豊かさ”を追い求めるのだ。盗んできた下着が包んでいたはずの現実の女の体より、下着そのものの方を彼らは愛している。

 女にとっての下着とはどのようなものなのだろうか。女はセックス・アピールのためにパンティを選ぶこともあるが、それとは別に“ナルシシズム”の世界を形成する。“今日はいているパンティ”は、わざわざ晒さない限り誰も見ることなくその1日を終える。本人は、今日の自分が自分のためにつけているパンティに思いを馳せる。それは女のナルシシズムである。観客のいないスカートの下の劇場では、女だけの王国が成立している。

 パンティを語るうえでもうひとり、重要人物がいることを忘れてはならない。それは“母親”だ。母親というものは昔から家事を牛耳っている。夫の下着、女の子の下着、それから男の子の下着を管理する。耳を塞ぎたい人もいるかもしれないが、“射精”とパンツの関係は切り離せない。男の子の思春期、つまり親から自立していく道のりには、その問題が訪れる瞬間がある。

 まだまだ小さい子どもには、母親が下着を買い与えて身につけさせる。女の子はそのうち初潮を迎え、自分で自分のパンツを洗うようになったりする。男の子はそういう意味で汚しても自分で洗うことはしないし、できないだろう。男の子がそうやって成長していき、ついに自立するとき、母親の呪縛から放たれ、今までの“母親セレクト”のパンツから自分の好きに選んだパンツに変える。

 性器は単純に生殖のためだけでなく、下着は単純に肌を守るだけでなく、それらは社会的な意味をはらんで存在している。母親は下着で家族の性器を管理することで家族を管理している。下着による性器の管理は、共に生活する家族というコミュニティの象徴といえるだろう。

 かつてアダムとイブが無垢を失ってしまったとき、彼らは自分の性器が見えていることを恥じて、イチジクの葉で覆ったという。けれど“何かでそこだけを覆う”という行為は、その“下にあるもの”をアピールしてしまうことでもある。気になるから、隠す。隠すから、気になる。スカートの下の劇場は、“隠す”から面白いのかもしれない。

文=ジョセート