人気小説の1シーンを刺繍で再現! 妄想を尽くして生み出された「刺繍小説」

文芸・カルチャー

2019/7/21

『刺繍小説』(神尾茉利/扶桑社)

 本を読むと、心の中に“忘れられないワンシーン”が残る。読書は、想像力を掻き立ててくれる、最高の娯楽だ。『刺繍小説』(神尾茉利/扶桑社)はそんな読書の楽しさや奥深さを「刺繍」という切り口でより立体的に際立たせてくれる1冊だ。

 本書では美術家の神尾さんが「刺繍描写のある小説=刺繍小説」をテーマに、さまざまな小説から想起した刺繍作品を披露する。「あの小説に出てきた刺繍は、こんな刺繍ではなかったか」「あの主人公の小物にはこんな刺繍があったかもしれない」と、物語から想起した刺繍作品を公開している。

 さらに、神尾さんは想像力をふくらませ、小説に登場する人物を動物キャラクター化して、それを刺繍に。

 かわいらしい刺繍には、それぞれの人物の特徴が鮮やかに反映されている。

 言葉や物語を元にして丁寧に刺された数々の刺繍作品は、小説がもつ独特の世界観が見事に表現されており、どれもドラマティックに見える。本書中には、各刺繍の図案はもちろんのこと、“刺繍小説”の名言も多数掲載されているため、手芸が苦手な方も、刺繍を入り口としたブックガイドとして十分に楽しめる。美しい写真に彩られた幻想的な刺繍ブックは、物語と現実の世界を繋ぐ架け橋となってくれるのだ。

■ピュアな『トリツカレ男』の刺繍シーンを作品にしたら…?

「言葉でできた刺繍がこの世には存在する」――神尾さんにそう気づかせた、いしいしんじさんの『トリツカレ男』(新潮社)は、主人公のジュゼッペが夢中で刺繍をしている場面が印象的な作品。

 周囲から「トリツカレ男」と呼ばれているジュゼッペは、ある日、風船売りの少女・ペチカに魅了される。ペチカにとりつかれたジュゼッペは悲しみで凍りついた彼女の心を温めようと奮闘するのだが、神尾さんはそんな作品の世界観や主人公の心情も巧みに再現する。

 真っ白なシャツに映える2匹のネズミは、ジュゼッペがネズミの繁殖にとりつかれた時に産まれた、言葉を理解できるハツカネズミのことを思い出させる。また、手を伸ばすネズミたちの間にある絶妙な隙間は、ジュゼッペとペチカの心の距離を表しているかのようだ。

 本書には、いしいさんとの特別対談も収録されている。2人の対談を読むと、刺繍と小説の違いや類似点に気づけ、両方の奥深さをよりおもしろく感じられるだろう。

■『わたしを離さないで』の物悲しさを刺繍に込める

 読書をしながら自分が思い描いていた人物像が、頭の中で動き、喋り、シーンを築き上げていく。それは小説を読んでいる時に味わえる楽しさだ。神尾さんは、そんな醍醐味も刺繍で作品化している。

 2017年にノーベル文学賞を受賞し話題になったカズオ・イシグロさんの『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ:著、土屋政雄:訳/早川書房)から想起した作品もそのひとつ。

 主人公である31歳の介護人・キャシーは、1990年代末のイギリスで“提供者”と呼ばれる人たちの世話をしながら、自分が育った全寮制施設での奇妙な少女時代や卒業後の暮らしを回想していく。神尾さんは施設時代のキャシーに想いをはせ、彼女が作中で抱きしめていた枕をイメージして刺繍をほどこした。

 外界から隔離された全寮制の学校、ヘールシャム。そこに隠された秘密を探ろうとするキャシーにとって、日常は平穏とは程遠いものであったはず。ちょっと悲しげな月と「Good Sleep」の文字には、キャシーの複雑な気持ちが表現されているかのようだ。

 神尾さんが生み出す刺繍作品は、私たちのイメージの中にあった作中のワンシーンを引き立て、小説をより味わい深いものにしてくれるのだ。

 読書に魅せられた美術家が心を込めて刺した24編の丹念な刺繍作品からは、各小説への深い愛情と敬意が伝わってくる。本書を開くたび、“見えなかったものを見ることができる楽しさ”に胸が躍る。糸で表現された言葉の世界は、読んで、そして自分でも作って愛でたくなるものだ。

文=古川諭香