『魔法科高校の劣等生』の主人公がイケメンでなかったら!? 新作ラノベ総選挙2019年2位の話題作

文芸・カルチャー

2019/8/31

『西野 ~学内カースト最下位にして異能世界最強の少年~』(ぶんころり:著、またのんき▼:イラスト/KADOKAWA)

 MF文庫Jから刊行されている『西野 ~学内カースト最下位にして異能世界最強の少年~』というライトノベルがある。

 本作は、乱暴に言えば『魔法科高校の劣等生』の主人公がイケメンではなく、クラスカースト最底辺の【ぼくら】のような存在だったら、という仮定で作られた作品。

 ※以下【ぼくら】とは、本作の主人公の立ち位置や言動に共感する魂を持っている【ぼくら】を指す。

 一般的にライトノベルは読者が主人公に感情移入をすると想定されるコンテンツであり、主人公の属性は、求められ報われ愛されるものである。

 だが、本作の主人公【西野】は暮らすカーストの最底辺。

 基本的にクラスメイトからは避けられ、学校生活での努力は報われず、その言動やフツメンであるが故に嫌われる存在である。

(本作の「フツメン」の扱いは「ブサメン」相当だが……)

 それでも、このフツメンが求めているのは、甘酸っぱい青春の思い出なのだ。

 心の底から笑いながら、素直に楽しいと思い返せる、そんな青春を求めているのだ。

 高校生活も残すところ一年と少し。

 将来思い返した時に「よかった」と思えるような、そんな思い出がほしいと思っているのだ。

 そこでは彼が異能力として持つ暴力などに出番はなく。

 清く正しい、どこにでもあるような普通の学生生活。

 或いは放課後に少しエッチなことが起こるような日々。

 そんなリア充的な時間を求め、果敢に行動する物語。

 それが『西野 ~学内カースト最下位にして異能世界最強の少年~』だ。

●類似作とその相違点

「周囲に嫌われて孤立する主人公」という構図は、ライトノベルにおいては定番の設定だ。

 だが、これまでの人気作でその属性を持つ場合は「目つきが悪くて怖がられている」という文脈の、「怖がれている」という立ち位置で置かれることが多く(『僕は友達が少ない』『とらドラ!』等)、『西野』との直接の比較は難しい。

「主人公の容姿が劣っている」という要素に着目すると、『アクセル・ワールド』『豚公爵に転生したから、今度は君に好きと言いたい』の2作が候補としてあがる。

 おもしろいことにこの2作はどちらもネット小説の書籍化(+新人賞)という生まれであり、「怖がられる」ではなく「劣っている」という文脈は、商業ベースの企画ではなく、ネットから生まれるという、おもしろい傾向を見ることができる。

 主人公側にヘイトを集めるのを商業は意識的に避け、よりニッチに刺さりやすいネット上ではそこを回避せずに投稿可能な傾向があるのかもしれない。

 ただ、これらの作品と比しても特異的なのは、『西野』は主人公が報われず、求められず、愛されない、徹底して幸福を与えられないという位置づけだろう。

 先述の2作は、主人公の努力は報われ、主人公の声は誰かに届き、主人公の持つ力を尊敬し支持し認める周囲の人間が存在し、主人公のことを愛し、主人公を求めるヒロインが存在する。

 きちんと主人公が評価され、読者が感情移入をしていても、不快感や被攻撃性を感じさせない作りになっているのだ。

 だが『西野』は、徹底的に主人公にヘイトが向けられている。

 なぜなら先述の2作は、主人公の能力を行使する先と、彼らが評価される場面、ヒロインの立ち位置が合致し、同じ盤面の上で戦うことができる。

 一方で『西野』は、彼の能力が求められる戦場と、彼が評価を求める学園生活とが乖離していて、まさに、学校生活では“評価されない項目”だからである。

 そして不幸なのが、西野は自分の戦場ではなく、一般社会での一般的な幸福を望んでしまっていることだ。

 彼の戦場である戦いの世界で幸福を望むなら、その能力で評価され求められ愛される可能性がある。

 にもかかわらず、彼は学校生活での青春を求めてしまう。

 西野は一般的な社会性を一切持たず、容姿も性格もクラスカーストも最底辺に設定されている。

 一般に容姿が優れない系の主人公であっても、性格が良く設定されたり、そんな彼を十全肯定し愛してくれる異性が存在する。

『西野』にも西野のことが大好きなキャラクターは存在するが、そのことが読者に判明するのに時間がかかってしまい、また西野自体はその少女のことを嫌悪しているため、主人公が愛される→それを喜ぶというエピソードが発生しない。

 結果、主人公≒読者が愛される状態も発生せず、「どんな自分でも愛してくれる女の子がいる」という状態を、享受することができない構図になってしまっている。

 それらが他の「容姿悪い系主人公」ライトノベルとの決定的な差になっていて、そこを求める読者に対して苦しい作品になってしまっている。

「性格が悪い主人公」を考えたときの類似作は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(以下、『俺ガイル』)が筆頭だろう。

 だが『俺ガイル』の主人公の性格の悪さは、読者の共感性が非常に高い「性格の悪さ」になっている。

 一般的に性格が悪いと言われるが、少しこじらせたオタクにしてみれば、嫌悪感よりも共感性の高いものに調整されている。

 また作中でも、その性格の悪さを「強く否定的」には書かれていない。

 だが『西野』では、彼の性格の悪さは「気取ってるイタい奴」というポジションでの性格の悪さになっている。

 彼の言動に対して、登場人物から非常に厳しい嫌悪の発言が向けられる。

 だけでなく、地の文からもボロクソに言われる始末である。

 この作品は徹底的に、西野の人格面を攻撃し続けているのだ。

 しかも、読者が少し共感する「気取り」を攻撃しているので、共感した人間に対する攻撃に、昇華されてしまっている。

 そこが「性格が悪い系主人公」ラノベとしての差異であり、読んでいる読者が苦しむ要素になっている。

「青春期の暗さ」に視点を当てた作品としては『悪の華』『おやすみプンプン』等が思い当たる。

 ただしどちらも完全な現実世界を舞台にしているため、現代ファンタジー的な側面のある『西野』比較が難しく、これについては言及を省略したい。

 ただ、上記2作を好きな人は、『西野』を好きになる可能性もあると思う。

「暗い青春」コンテンツは、一定の需要があると信じている。

●アンチセカイ系としての『西野』

 過去に一世を風靡した【セカイ系】だが、『西野』はこの【セカイ系】へのアンチテーゼとしての側面を持っている。

 セカイ系に関しては、想定外に「ニコニコ大百科」が分かりやすい特徴をまとめていたので引用すると

・物語は主人公とその周辺のみで展開する。
・主人公は世界の危機などの世界規模の問題に関わることになる。
・主人公は世界の危機に向き合うと同時に日常生活も送っている。
・主人公とヒロインまたは主人公周辺の人物との関係性が世界の危機に直結する。
・主人公は世界の危機の解決とヒロインの命の二択を迫られる。
・主人公の精神世界や心情描写が重視される。
http://dic.nicovideo.jp/a/セカイ系 より引用)

 であり、世界を背負い特別な力を持つ【きみ】にとって何も持たず無力な【ぼく】が特別な存在になり、【きみ】と【セカイ】を天秤にかけた上で選択を求められる物語。

 というのが基本骨子になっている。

【ぼく】は無力で【きみ】が破格の力を持っている。
そして【ぼく】の性格は悪くないし、顔も悪くない。

 というのが、基本的なテンプレートだ。

『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』『新世紀エヴァンゲリオン』『半分の月がのぼる空』などなど、当時の作品ではその文脈が愛され、多く支持されてきた。

 そして、これらの作品の核は「【ぼく】が【きみ】に愛されること」が絶対的な条件になっている。

 そしてこれらの条件の逆張りで成立しているのが『西野』なのだ。

【ぼく】である【西野】は、最強の異能力を持っている。
【西野】は性格が悪いし、顔も良くない。
【きみ】になるであろうヒロインは存在せず、一般学生にその姿を求めている。
だが【きみ】候補である一般学生からは等しく嫌われており、愛されない。

 と、キャラクターの持つ属性が、どれも正反対に設定されている。

 そして、基本的に【セカイ】も【きみ】も守れてしまうのが【西野】である。

 なによりフツメンコミュ障であるためにセカイ系が発生し得ない構図は、当時のヒロイックで劇的で感傷的なセカイ系という綺麗なファンタジーに対する、何も持たない人が増えた現代日本の、恋愛資本主義に嫌気がさした恋愛低所得層による、「結局顔が良くなければ物語は生じないのだ」という諦観と皮肉の込められた、一つのアンサーなのかもしれない。

『西野』はそのような「何も持たない透明な【ぼくら】」に捧げられた、決して幸福になれない【ぼくら】の物語になっているのだ。

 もし【ぼくら】が、アニメやゲームやラノベの主人公のように、何か特別な力を人並み以上に使うことができれば、【ぼくら】は誰かに愛してもらえるのだろうか?

 たぶん【ぼくら】はそれを一度は妄想し、そして首を横に振る。

 透明で不器用な、一般社会の中で何者にもなれない【ぼくら】が、もし、誰にも負けない特別な力を手にしたところで、【ぼくら】はクラスの人気者にはなれないし、それで女の子との関係性を築けるようになるわけでもない。

 容姿がよくなるわけでも性格がよくなるわけでもコミュ力が上がるわけでもない。

【ぼくら】は【ぼくら】にしかなれない。

 そして【きみ】も、【ぼくら】の前には現れない。

 誰にも評価されることなく、隅っこで生きることしかできなかった【ぼくら】。

 そんな【ぼくら】を映す鏡が、【西野】であり、等身大な【ぼくら】を託す事ができる、唯一の存在なのだ。

 そこにはもう【セカイ】も【きみ】も必要ない。

【西野】が――【ぼくら】が苦しむ姿を見て、暗い感傷と自己愛で自慰をするような愛し方こそが本作を最も楽しむ方法なのだ。

 そしてその暗い感傷と自己愛こそ、セカイ系の主人公の無力感を見てわき上がる感情に重なるのだ。

 故に『西野』こそが、セカイ系へのアンチテーゼであり、現代におけるひとつのアンサーだと実感した。

文=東ノ巧