第二次世界大戦中のソ連には、陰で奮闘する女性たちの姿があった――。戦争に運命を翻弄された、女性の生き様とは

マンガ・アニメ

2020/1/31

『戦争は女の顔をしていない』(小梅けいと:作画、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:原作、速水螺旋人:監修/KADOKAWA)

 戦争をテーマにした作品は、数多く存在する。その多くが、戦地で戦う「男たち」に焦点を当てたものばかりだ。男が戦に赴き、女はその帰りを待つ。それを悲恋に仕立てるものもあれば、戦争の悲惨さを説くものもある。

 しかし、それは戦争の一側面でしかない。あるマンガを読んで、そう思い知らされた。

 その作品の名は、『戦争は女の顔をしていない』(小梅けいと:作画、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ:原作、速水螺旋人:監修/KADOKAWA)。本作の原作となった同名タイトルのノンフィクションは、ウクライナ出身の女性ジャーナリストであるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんが手掛けたものだ。出版されたのは、1984年。2015年にはノーベル文学賞にも輝いた。

 そこで紡がれたのは、第二次世界大戦で従軍した、ソ連の女性たちの姿。当時、100万人を超える女性が従軍し、看護師や医師、なかには兵士として男たちと肩を並べ戦った人もいたという。アレクシエーヴィチさんは彼女たちにインタビューを重ね、戦時中に起きた出来事に耳を傾けた。そのエピソードの一つひとつは、ぼくらが知っている戦争モノとは一線を画す内容だ。

 そしてこのたび、満を持してコミカライズされた本作。第一話の公開当初から反響を集め、ついに単行本が発売された。

 本作は、第二次世界大戦を経験した女性たちが過去を振り返る形式で、当時の様子が描かれていく。たとえば第一話に登場するのは、戦地で「洗濯部隊」に任命された女性の半生だ。

 「洗濯」と聞いて、「戦地で戦うよりもマシだろう」と思う人もいるだろう。しかし、その解釈は間違っている。戦地には洗濯機などなく、すべて手作業で行うことを強いられる。兵士の汚れ物を洗う手は荒れてしまい、爪が抜け落ちることも珍しくない。なかには洗濯物の重みで脱腸になってしまう女性もいた。想像以上の重労働なのだ。

 男たちは、そんな彼女らを「洗濯女だってさ」と笑う。先頭で戦っているのは自分たちだ、という驕りもあったのだろう。しかし、武器を持ち、敵兵を殺すことだけが「戦い」ではない。洗濯部隊となった彼女たちもまた、陰で戦っていたのだ。それがいかに悲惨で過酷なものだったのか。それを知らずして、戦争の歴史を語ることができるだろうか。本作を読み、ぼくは自分の無知さを恥じた。そして、歴史の陰に追いやられてしまった彼女たちのことを、もっと知りたいと思った。いや、正確に言えば、「知らなければいけない」と思わされた。

 なかには、「狙撃兵」として、何人もの敵兵を撃ち殺した女性もいた。それが描かれるのは、第三話。初めて人を殺してしまったときのことを振り返り、彼女は言う。

“私は全身が震えて 自分の骨がガタガタ鳴るのが聞こえる”

“泣き出してしまった”

 ところが、そんな感覚も次第に麻痺していく。いつしか彼女は「殺すこと」に慣れてしまい、“ふつう”の感覚を失っていったのだ。そして戦争が終わり、日常生活を取り戻した頃には、「なにもかも、ゼロから始めなければなかった」という。ふつうの靴を履くことも、スカートを揺らすことも、花や小鳥の姿を眺めることも、忘れていたから。戦地で男のように扱われ、死と隣合わせの日々を送っていたことで、彼女は女性として生きる感覚を失ってしまったのだ。それがどんなに哀しいことなのか、想像すらできない。戦争は人の生命だけではなく、「人として生きる尊厳」さえも奪い去ってしまうのだろう。

 本作には、その象徴ともなる言葉が登場する。それは第七話で当時を振り返る、射撃手の一言だ。彼女はこう口にする。

“戦争で一番恐ろしかったのは……男物のパンツを穿いていることだよ”

 この言葉に、どれほどの重みがあるだろう。彼女たちは「女性である」というアイデンティティすら奪われ、男のように戦うことを余儀なくされた。それがいかに屈辱的で、悔しくて、哀しいことだったか。それでも生きるためには戦うしかない。そんな女性たちがいたことを、ぼくらはもっと知らなければいけない。それなのに、歴史の授業ではそれが軽視されている。だからこそ、本作が原作の発行から30年以上経ち、手に取りやすいマンガの形で世に出たことには深い意味がある。

 戦争は女の顔をしていない――。まさにその通りだ。しかし、戦争の陰には奮闘していた女性たちの存在がいることを、決して忘れてはならない。それを伝える本作は、大人の課題図書といっても過言ではないだろう。

文=五十嵐 大