なぜ「桜見」じゃなくて「花見」と言うの? 外国人ヤンキー言語学者が「日本語のプロ」に弟子入り

文芸・カルチャー

公開日:2020/2/8

『教えて! 宮本さん 日本人が無意識に使う日本語が不思議すぎる!』(アン・クレシーニ、宮本隆治/サンマーク出版)

 以前日本語に関する雑学の本で、便器の数え方を知った。読者の中に、人生において便器を数える機会のある人がいるかもしれないので記しておくと、「据(すえ)」あるいは「穴(けつ)」と数え、公園などの公共の場に設置される場合は「基(き)」と数える。外国人が日本語を勉強するさいに困るものの一つが、この数え方の助数詞だそう。

 そんな日本語に恋して研究に明け暮れている、“外国人ヤンキー言語学者”のアン・クレシーニ女史が、かつて「ミスターNHK」との異名をとり、美しい日本語を話すことに定評のあるアナウンサーの宮本隆治氏に徹底質問した『教えて! 宮本さん 日本人が無意識に使う日本語が不思議すぎる!』(アン・クレシーニ、宮本隆治/サンマーク出版)は、日本語を再発見させてくれる一冊だ。特に本書はアン女史の、日本語ファンならではの視点と言語学者らしいコメントが、他の日本語をテーマにした書籍とは違った面白さとなっている。

◆「事実」と「真実」はどう違う?

 宮本氏の解説によれば、「事実とは実際に起こった嘘偽りのない事柄のことを指します。でも、真実は事実に対する偽りのない解釈のこと」だという。さらに補足すると「事実には反論できませんが、真実には反論できる」とのことで、アン女史は、人を殺した犯人は殺人そのものは事実だから反論できないけど、殺意があったかどうかは犯人の認識によって反論できるから「事実は1つ。真実は人の数ほど」と理解した様子。この事実は、某高校生探偵に教えてあげたくなる。

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◆10個は「じゅっこ」と読まないの?

 アン女史も日本に来て驚いたのは、やはり数え方の多さだったという。お皿を数えるときは「1皿、2皿」なのに、料理が盛りつけられると「1品、2品」になるのが難しすぎると述べていた。しかし、同じように料理がのっていても、ざるそばの場合は「1枚、2枚」と数えることを例に、宮本氏は「外国人がどのように数え方を学ぶかを知ることは、もののとらえ方の視点を気づかせてくれるいい機会になります」として、本書には数え方の一覧表が載っている。その表には、人を数える場合に10人は「じゅうにん」だが、10個は「じっこ」、10冊は「じっさつ」と書かれていた。ただし、2010年からは常用漢字の備考欄に「じゅっ」という読み方も追記されるようになったそうだ。

◆どうして日本人は「お茶が入りました」と言うの?

 喫茶店などで「こちら、コーヒーになります」と店員が言うのを、聞いたことのある人は多いはず。アン女史は「コーヒーになるってことは、前はなんやった?」と思ってしまうそう。しかし、「お茶が入りました」という言いかたのほうは一般的で、日本では圧倒的に会話の中では自動詞が好まれることを宮本氏は指摘しており、アン女史も「お茶を入れました」だと「私がやりました!」と主張していることになるから謙遜しているのだと理解していた。つまり、先のいわゆる「バイト敬語」は、「お客様のご期待に応えられるかどうかはわかりませんが、これが、私どもの店ではコーヒーなのです」という意味で使われているのだろうと、宮本氏は推測していた。もちろん、日本語的には誤用である。

◆どうして「桜見」ではなく「花見」と言うの?

 日本の花見の歴史は古く、奈良時代から始まっており、当時は唐(現在の中国)から輸入された梅を貴族が愛でていた。だから、奈良時代に「花」と言うと「梅」のことをさしており、「万葉集」で梅を詠んだ句は100前後もあるのに対して、桜を詠んだ句は40前後。それが平安時代の「古今和歌集」になると桜のほうが多く詠まれ、桜のことを「花」と表現するように変わっていったという。しかし大衆に桜が好まれるようになったのは、江戸時代になってから。桜の「さ」は田の神様を表し、神が座る場所を意味する「くら」を合わせた読みであることについて、昔の日本人は田植えの時期を迎える前に咲き誇った桜を見て、田の神が降りてきたと考えたのだろうと宮本氏は述べている。アン女史は、「ハナミ」という語感も好きだそうで、本書ではたびたび日本語の響きについても語っていたが、なるほど便器も、一据(ひとすえ)と数えてみると趣があるように感じるから不思議だ。

文=清水銀嶺