終電前のちょいごはん! おっとり店主の作る「おつまみ」ならぬ《こつまみ》に、疲れた心が癒される

文芸・カルチャー

2020/6/19

『終電前のちょいごはん 薬院文月のみちくさレシピ』(標野凪/ポプラ社)

 仕事帰り、ちょっと一杯飲んでから帰りたいなと思うことがある。そんな日は大抵、仕事がうまくいかなかったり、私生活でモヤモヤを抱えていたりするものだ。ところが、そういうときこそ店選びは難しい。居酒屋の料理はポーションが大きいし、バーの乾き物ではお腹が満たされそうにない……『終電前のちょいごはん 薬院文月のみちくさレシピ』(標野凪/ポプラ社)に登場する店は、そんな気分の夜にぴったりだ。

 夕方になってもいつまでも明るい、初夏の福岡。薬院の裏通りには、いっぷう変わった店がある。開いているのは、三日月から満月の夜のあいだだけ。絵本に出てくる古い屋根裏部屋のような店内では、おっとりとにこやかな店主・文が作る、季節野菜の小皿料理──「おつまみ」ならぬ《こつまみ》が楽しめる。

《迷い道のちょいごはん どうぞ》

 看板に書かれた文字に誘われてやってきたのは、応用化学を学び、研究所で働く悠那。幼いころから他人と交わるよりも草花と戯れることを好み、化学の道を選択した。現在は、福岡県出身の美容家がプロデュースする化粧品のサンプル調整に取り組んでいる。だが、その仕事がどうもうまくいかない。思うような実験結果が出ないのだ。職場での実験は基本的にひとりで行う。同僚に気軽に相談できる環境ではない。「別の人やったら、もっとうまく進められるかもしれんのに……」。自己嫌悪に陥った帰り道、悠那はシロツメクサに誘われて、路地の先へと迷い込む。そして気づけば、くだんの看板を出す店「文月」の前にいた。看板には《本が読めて手紙が書ける店》と添えられている。

「本日の《こつまみ》は、春キャベツとレモンのサラダ、タケノコと高菜のポン酢炒め、それから新タマネギのオニオンリングですよ」
「《こつまみ》……ですか?」
 顔をあげた先には、にこやかに笑う店主がいる。パッツンと切り揃えられた前髪、その下で大きな目がくるくると動く。かと思ったら、とろんと目を細めた。そのままこの空間に溶けてしまいそうだ。
「うちのおつまみは小皿にちんまり盛るので『こ』つまみって呼んでいるんですよ」

 悠那のほかにも、「文月」にはさまざまな客が訪れる。「合わせる恋愛」に疲れた年上彼女、前時代的な上司と闘う若き人事部社員、保健室登校から抜け出せない女子高校生、妻のお弁当がちょっと重たい営業マン……彼らはみな、たとえて言うなら終電前、疲れて足を止めてしまった人たちだ。あと少しで、目的地にたどり着く電車に乗れる。けれどその「あと少し」を歩く気力が尽きてしまった。そんなとき「文月」は、夜道を照らす月のように、彼らの前に姿を現わす。《終電前のちょいごはん どうぞ》──そんな看板に導かれ、店の雰囲気、店主の佇まいや料理から、彼らは「あと一歩」を踏み出す元気を取り戻す。

『終電前のちょいごはん 薬院文月のみかづきレシピ』(標野凪/ポプラ社)に続く第2弾でありながら、この一冊だけでもおもしろく読めるのは、どんな人でも受け入れ癒してくれる「文月」や店主の性質によるものだろうか(ただし、すべての美味しい店がそうであるように、第1弾の書籍もすべて味わってみたくなる)。巻末に、店主が作る四季折々の料理のレシピもついた本書。読了時には、あなたの抱えるお悩みも、「こ」悩みになっているかもしれない。

文=三田ゆき

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