闇を抱えた男女の卑しくも人間らしさ溢れるダークヒューマン漫画『コーポ・ア・コーポ』

マンガ

公開日:2020/7/14

『コーポ・ア・コーポ』(岩浪れんじ/ジーオーティー)

 初めて「卑しさ」という言葉が似合う人間を見たのは、大学時代だったと思う。当時の僕はそんな卑しさ満載の他人を線引きするどころか、「同じ人間じゃない」と見えないものとして扱っていた節さえあった。けれど社会人になり、様々なことを経験してきた今、「卑しさこそ、人間らしさの象徴ではないのか」と思うことがある。

 現代日本で推奨されがちな「ポジティブ」という名の“強がった生き方”は、どこか機械的で人間らしさに欠けているのではないかと。

『コーポ・ア・コーポ』(岩浪れんじ/ジーオーティー)で描かれているのは、卑しさ満載でかつ弱々しく、でもなぜか人間らしいと言われれば納得してしまう、そんな人間達の暮らしぶりだ。

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 本書の舞台は、川辺にある今にも崩れてしまいそうなボロアパート。そこに住んでいるのは、世間から「人生の負け組」「落ちこぼれ」「下層の人間」と揶揄されても不思議はない男女だ。そんな彼ら“だから”というべきか。一人ひとりが生きてきた軌跡や積み重ねてきた過去は重苦しく暗い。何度上から塗りつぶしたかわからないほど真っ黒な闇に満ち溢れているのだ。そして今、ユリは家出少女、鉄平はDV男、紘はヒモ男、友三は売春斡旋親父として生きている。

 ただそんな彼らも、今の自分を決して良しとしているわけではない。今までの人生を悔い蔑むし、「このままで良いのか」と悩み、泣く。今の彼らにとって大事なのは自分を省みることではない。“明日をどう生きるか”なのだ。

 たとえ、いま自分で選んだ行動が、卑しく弱々しいものに感じたとしても、それが今の「生」を全うする手段なら、捨てることはできない。そもそも捨ててしまっては理想も何もない。彼らはそう考えている。

 作中でもお互いの堕ちた行動に対し、蔑んだり咎めたりしない。それは互いが「生」を全うするための行動なのだと、理解し合っているためだろう。

 もし本書を読み、彼らの暮らしぶりに嫌悪感を覚えつつも共感できてしまうようなら、僕ら読み手側も、彼らのような卑しさを持っているのかもしれない。表に出さないようにしているだけで。でもそれでいいのだろう。卑しくない人間などいないのだ。

 きっと本書は好き、嫌いがはっきり分かれる作品だ。大学時代の僕のように彼らを「見えないもの」として認識し本を閉じる人もいるだろうし、彼らの人間らしさに魅了されて何度も読み返す人もいるだろう。僕は断然、後者だ。今後彼らがどのように生きていくのか、他にどんな人間らしさを魅せてくれるのか、すでに続きが気になって仕方がない。

「ほのぼの+時々シビア」をベースに描かれた日常生活系漫画が多いなか、ここまで真逆に舵を切った作品は、他にないだろう。ぜひ手にして読んでいただきたい。

文=トヤカン