決定!「コロナの時代の読書」特選レビュー3作 その2

文芸・カルチャー

更新日:2020/7/27

コロナの時代の読書

 ポストコロナではなく、ウィズコロナ時代となるのではないか、とも言われている現在。当たり前のように存在していた私たちの日常が、いま少しずつ変わろうとしている。そして人々の想像力のありようもまた、日々変化しているように思われる。そんな歴史の転換点において、いつも我々の道標となってくれたのは「本」の存在である。

 現在、KADOKAWAではコロナ禍の読書ガイド企画「コロナの時代の読書」を開催している(https://kakuyomu.jp/special/entry/readingguide_2020)。多くの作家・評論家が、コロナ時代に読むべき本について寄稿。また、読者が自由に投稿できる場「みんなで作る読書ガイド」も設け、これからの世界を生きるために携えるべき本のガイドが多数集められている。このほど、一般読者から募った投稿の中でも特に優れた「特選レビュー」が3作選ばれた。ダ・ヴィンチニュースでは、その「特選レビュー」3作品を皆様にお届けする。

 2作目は、矢向亜紀さんの「『1984』で考える新型コロナウイルスとの共存」を。

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『1984』で考える新型コロナウイルスとの共存
矢向 亜紀

1984
『1984』(ジョージ・オーウェル/ゴマブックス)

『1984』 ジョージ・オーウェル著

 言わずと知れたSFの名著で描かれるのは、確かに、いくらか誇張されたディストピアの世界だ。

 言論統制、思考統制、価値観の統一化、過去の改竄。
「こんな世界に生まれなくてよかった」

 読み手はそう思いながらも、どことなく妙な心地になる。
「本当に、今自分が生きている世界は、“こんな世界”ではないんだろうか?」

 古典作品は、現代に生きる私たちにとって、ある一定の示唆を与える。(初版発行1949年の本作も、SFの古典と表現して差し支えないと思いたい。)新型コロナウイルスが流行し、自宅で過ごす時間が増えた中。何かの示唆を、救いを求めて、本作を手にした人も少なくないだろう。

 この『1984』もまた、現代からすればだいぶ昔の年号を冠に持ちながらも、
「こんな未来は嫌だ」
「でも既にその気配は漂っている」
と、私たちに危機感を与える。

 新型コロナウイルスの流行は、世界中を巻き込む事態に陥った。

 多くの人にとって、これは、恐らく生まれて初めて感じる“世界規模でのウイルスの流行”であり、近代化した便利な日々の中で命の危険と隣り合わせで生きる、恐怖を味わう経験となった。

 街は閉鎖され、人と会えなくなり、相手は目に見えない未知のウイルスで、毎日大量に誰かが倒れ、正しい対策は分からず、過度な自粛を強要する意見が暴走し、心まで病んでいく。

 そして、素晴らしい行動をする誰かを称えることが称えられる。輪を乱す誰かがいれば、表立って非難しても、今なら多くの人が共感してくれる。

『1984』には、圧倒的な支配者、称賛するに値する存在、「ビッグ・ブラザー」がいる。物語の舞台となる、核戦争後のオセアニアを支配する独裁者だ。

 街の至る所に、「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」の標語と、彼の巨大な顔が描かれたポスターが貼られている。思考警察は住民を監視し、不都合な存在は音もなく姿を消されるか、場合によっては公開処刑だ。

 過去の出来事は簡単に記録を改竄され、新しく開発された単純な言語に、人の思考は引きずられる。生活は苦しいが、「何もかも順調だ」とメディアは言う。

 そして、毎日決められた時間に、人々は一斉に「二分間憎悪」を行う。人民の敵として指定された者への怒りを、罵詈雑言を、ありったけの声で叫ぶ。

 読み手の私たちは、住民たちの光景を異様に感じる。
 だけど、ほんの少しだけ、思う。
「今の私が生きる世界に、似ている」と。

 新型コロナウイルスが流行して、私たちは一体、なにをしただろう。もちろん、大人しく家に居て、手洗いをし、家族と支え合った人がほとんどだろう。でも、それだけではない。

 増え続ける死者の数を、まるで映画でも見るかのように、指の隙間から眺めていた。回復した人の隣に座るのは嫌だった。決まった時間に医療従事者に拍手を贈り、「でも家族じゃなくてよかった」と思った。県外ナンバーの車に卵をぶつける人がいた、心のどこかで「仕方ない」と思った。

 そのどれかに、全く当てはまらない人なんて、いないだろう。それなのに、少しでもそう思ったと口にすれば、一斉に非難される。

 誰も彼もが、お互いを監視している。ひとりひとりが、ビッグ・ブラザーのように、お互いを見ている。違反していないか、不都合ではないか。少しでも隙があれば吊し上げ、日々の鬱憤をそこにぶつける。

 確かに『1984』は、誇張されたディストピアの話だ。幸い、私たちの歴史における1984年はあんなものではなかったし、現代には自由も優しさも暖かさもある。情報も食事も手に入る。

 だけど、残念なことに。『1984』は、誇張されたものだった。言論統制、思考統制、価値観の統一化、過去の改竄。その要素が、現代においてゼロになったとは言えない。思い当たる節がある。誰もが後ろめたい気持ちになる。だから居心地が悪い。それなのに。それだからこそ、読み進めてしまう。

 危機的状況下にあると、人の本性が表出する、と人は言う。団結したり、怒り狂ったり、争ったり、励ましあったり。

 しかし、新型コロナウイルス流行は、危機ではなく日常に変わりつつある。まるで『1984』のように、危機は日常になりつつある。

 本性を曝け出して、慌てふためく春は終わった。これからは、何が最適なのか正しいのか、無理がないのかを、自分の日常に置き換えて考えて行動する、試行錯誤の時期だ。

 考えて試して、失敗したら、また考える。自分で考えなければならない。自分の日常は、人生は、自分だけのものだ。

 そのすべてを出来なくなり、諦め、なにもかも誰かに委ねようと思ったその瞬間。

 私たちは気づくのだろう。

 あの『1984』は、さほど誇張して描かれたわけでは、なかったのだと。

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